令和8年熊本地震災害派遣と過去の長期災害派遣事例(5)
先週、雲仙普賢岳噴火における災害派遣がなぜこれほどまでに長引いたのか、そこまでご紹介しました。
災害派遣期間が歴代3位だった令和6年能登半島地震についてはどうでしょう。この長期化の主な要因は、上下水道の復旧に時間を要していたことが挙げられます。能登半島では地震による広範なインフラ被害が発生し、特に水道施設や道路の復旧が困難で(半島という地理的な特性ゆえ)、住民生活の基盤整備に時間がかかりました。
そして災害派遣期間歴代2位の東日本大震災。こちらは派遣人数が延べ1000万人以上と過去に例のない規模での派遣となった地震・津波対応の大規模震災災害派遣も174日間と半年近くに及んでいますが、福島第一原発事故対応の原子力災害派遣は延べ派遣人員が約8万人にも関わらず、期間は291日間に及びました。2011年3月からその年の暮れまで実施されたことになります。ここまで長期になった理由は(おそらく読者のみなさまも想像がついていらっしゃることでしょうが)、除染作業でした。
では、これらの災害派遣は、期間を短縮することはできなかったのでしょうか。
そこには災害派遣の3原則にも通じる、「本当に自衛隊でなければできない活動だったのか」という問いにつながります。
そこで、私なりにこの3つの災害派遣期間の短縮の可能性について考えてみました。
まずは、雲仙普賢岳噴火における災害派遣から。
これは火山活動自体が4年3か月、住民の避難は4年半続いたということが、長期化最大の原因でした。そのため、根本的な短縮は難しかったかもしれません。
しかし、火山監視・避難支援・ライフライン復旧の一部は、事前協定の拡充や関係機関の連携強化により、自衛隊への依存を低減できた可能性があります。災害派遣3原則の「非代替性」に該当しない、ということです。
とはいえ、事前協定の拡充や関係機関の連携強化というのが1990年に確立できたかといえば、机上の空論であることも否定できません。1995年1月(まだ雲仙普賢岳噴火の災害派遣中です)に発生した阪神淡路大震災での自衛隊への災害派遣要請や自衛隊の初動を振り返れば、理論上は可能でも、時代的に、現実としては難しかったかもしれないと思います。
次に、令和6年能登半島地震の災害派遣です。
自衛隊が長期にわたって担ったのは給水・入浴支援でした。耐震化が進んでいない能登半島の水道は地震により大きな被害を受け、半島という地理的特性で、復旧のための交通手段にも制約がありました。そのため給水支援は不可欠でしたが、全国から派遣された約1390台の給水車がより迅速に手配できた可能性は少なくありません。交通インフラの問題はあったでしょうが、車両が進入しにくいという点では、自衛隊の給水車も同じ条件でしたから。
被災者の体だけでなく心もあたためた入浴支援は、「期間を短縮する」というより、「自衛隊への依存を減らす」ことが可能だったと思われます。
阪神・淡路大震災では自治体と自衛隊の平素からの連携が十分でなく、災害発生時の情報共有や災害派遣要請などの初動に課題が生じました。この苦い教訓を踏まえ、その後、自治体と自衛隊は災害時の連絡体制や要請手順を整備するとともに、協定の締結や共同防災訓練など、平時からの連携を強化していきました。こうした取り組みは、東日本大震災における迅速な災害対応にも生かされました。
つまり、令和6年能登半島地震における災害派遣は、表現が適切でないかもしれませんが、過去の災害派遣の課題の多くを克服したり対応したりした、「最新版」のものでした。
しかし、いくら自衛隊にとって最新版でも、協定を結んだ自治体の態勢が整っていなければどうにもなりません。
もしも自治体が公衆浴場や移動式入浴施設(ランドリーカー・入浴車)、訪問入浴事業者といった各種民間事業者と災害時における事前協定を結んでいたら、自衛隊は入浴支援だけでなく、給水支援もより早い撤収が可能になったでしょう(公衆浴場の無料開放については実施されました)。
(つづく)








