令和8年熊本地震災害派遣と過去の長期災害派遣事例(4)
令和8年熊本地震における災害派遣の詳細をお伝えするのが目的のこの連載ですが、4週目になりながらいまだ発災後の災害派遣の具体的な活動にまでたどりついていないため、イレギュラーではありますが今週から連載タイトルを「令和8年熊本地震災害派遣」から「令和8年熊本地震災害派遣と過去の長期災害派遣事例」に変更します。引き続きお付き合いいただければ幸いです。
先週の「自衛隊の災害派遣期間の長さ」の続きですが、最初にお詫びを。
実は私、大変お恥ずかしい、そして重篤な誤りを記述してしまっていました。令和6年能登半島地震の災害派遣は2026年8月31日ではなく2024年8月31日に終了しており、災害派遣日数は244日間になります。つまり災害派遣日数も第3位となり、東日本大震災・原子力災害派遣(291日間)が第2位と、順番が入れ替わります。こんな間違いを犯していたとは猛省です。大変申し訳ございません!
改めて……
歴代の災害派遣期間の第1位は1990年5月から約4年半に及んだ雲仙普賢岳噴火における災害派遣(1658日間)でした。
第3位と第2位はいずれも地震に端を発した災害派遣ですが、雲仙普賢岳は火山の噴火という、日本が活火山大国であることを改めて知らしめた災害派遣でした。
ただし、延べ派遣人員の多さで見ると、東日本大震災(地震・津波対応)は延べ1058万人、原子力災害派遣は延べ約8万人、令和6年能登半島地震は延べ約114万人、雲仙普賢岳噴火は延べ約21万人と、東日本大震災の派遣規模の大きさが際立っていることがわかります。必ずしも派遣規模=派遣期間ではない、ということです。
雲仙普賢岳噴火における災害派遣がなぜこれほどまでに長引いたのかにも触れておきます。
これは大きく3つの要因があったと思われます。
1つめ、これが最大の要因ですが、「噴火活動が長期化」したこと。
噴火活動は1990年11月17日から1995年2月まで約4年3ヵ月に及びました。1991年5月20日からは溶岩噴出が始まり、約3年9ヵ月にわたって溶岩ドームが成長し続けました。また火砕流は計約6000回~9400回と繰り返し発生し、そのうち数回は流下距離が4kmを超えています。火砕流堆積物への降雨による土石流の危険が続いた以上、警戒区域内の住民の避難は必至であったことが、これらの数字だけでもわかります。それが、2つめの要因である「住民避難の長期化」につながります。
1991年6月3日に発生した大規模火砕流以降、島原市の避難者数は最大2047世帯7208人、避難日数は1863日(1991年5月26日~1996年6月末)、約5年1ヵ月も避難生活を強いられたのです。
1996年5月1日まで火砕流が観測されていた以上、それ以前に警戒区域を全面解除して住民を帰還させることには、重大な人命リスクがありました。また、火山災害では「危険がないこと」を証明するのが難しく、活動が弱まっているだけでは、行政が帰還を決定する根拠として不十分です。1991年6月3日に43人の犠牲者が出たことも、行政が安全側に判断する大きな要因になったと考えられます。
そして3つめは、「自衛隊の存在の重要性」があります。現地における自衛隊の存在は、不安な気持ちで生活を続ける住民にとって、精神的にも大きな支えとなったのです。これはその後の災害派遣でも聞かれる声で、「火事場泥棒が不安な日々、自衛隊の車両が走っていること自体が抑止力になった」「被災地に自衛隊がいるということだけで心強かった」ともいいます。そして火山活動の監視・警戒を継続する必要もあり、自衛隊の継続的派遣が求められたのでした。
(つづく)









