神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(47)
また、業務学校での半年間の研究を終え、いよいよ陸幕の業計班長に着任するという直前には、地下鉄サリン事件が起きた。オウム真理教とサリンの関係は耳にしていたし、化学部隊も協力していたから認識はしていたものの、まさか人類史上初の地下鉄における化学兵器による無差別テロが日本で起きるとは思ってもいなかった。
実は事件当日、火箱は「着任前に挨拶がてら顔を出しておこうかな」と思っていたのだが「明日でいいか」と気が変わり、防衛庁に行かなかった。もしも行っていたら、まさに事件が起きた時間帯の千代田線に乗っていたはずで、それに気づいたときはぞっとした。
かつての冷戦時代のように、対ソ連だけを考えていればいい時代はとうに過ぎた。国家同士の大戦争は減少する一方で内戦やテロは増え、日本国内でも天災を含む不安定な状況が生じている。自衛隊を取り巻く環境が着実に変わっていく中で、火箱は業計班長として新たな業務に取り組むこととなった。
冷戦の終焉は新たな混沌の時代の幕開けでもあり、自衛隊を取り巻く環境も大きく変わり始めた。
自衛官の火箱にとって敵とは、長らくソ連だった。火箱に限らず、自衛隊の編制も装備品も訓練もすべて、対ソ連を想定したものだった。それが1989(平成元)年のマルタ会談で冷戦の終了が宣言され、翌年に東西ドイツ統一、さらに 1991(平成3)年にはソ連を構成していた国々が分離して独立、ソ連という国家がなくなった。
火箱は「これからの自衛隊はどうなっていくのか。想定していた敵がいなくなり、なにを対象に訓練していくのだろう」 と考えた。「これからは自衛隊が海外に行くこともあるだろう」とも思ったものの、まだあまり深く考えてはいなかった。 国際貢献という言葉も自衛隊にはなかったし、憲法の制約下で陸自が海外に行くとしたら、どんなところへどんな任務で 行くことになるのか、今ひとつぴんと来なかったのだ。
だから海自の掃海艇がペルシャ湾に派遣されたときは、「あんなところまで行くのか」と驚いた。
「掃海艇がペルシャ湾まで行くなんて。あんな小さな船、まるでボートじゃないか」
第14掃海隊司令としてペルシャ湾に赴いた森田良行1等海佐(当時)は、防大15期で火箱の先輩に当たる。統幕学校入校時、森田1佐から直接いろいろ話を聞く機会があり、派遣された部隊が大変な苦労をしたことを知った。
出発はマラッカ海峡が台風で荒れるまさにぎりぎりの時期だったこと、約500tの木造船は波濤にもまれ木の葉のように揺れたこと。他国より遅れて到着したため、現地には処理の難しい機雷ばかりが残っていたこと。実は棺桶を積んで行っていたことも聞かされた。
そして1992(平成4)年にはPKO法が成立、陸自もカンボジアに派遣された。
当時の火箱は西方総監部の幕僚として雲仙普賢岳災害派遣などに対応しており、陸幕の海外派遣に対する緊張感をじかに感じていたわけではない。ただ、火箱が想像していた以上に自衛隊の海外派遣は早いペースで進み、それに伴い、これまであまり外国を意識していなかった火箱の意識も、統幕学校入校以降、否応なく変化していくことになる。
(つづく)







