神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(46)
「体のため、健康のため、体力維持のため」と連日走り、その結果レンジャー時代に匹敵する体力を取り戻し絶好調だと思っていたのに、乾ききった体に水分も取らず、プリン体たっぷりのアルコールを流し込むことで痛風になってしまったとは痛恨の極みだった。
火箱はこれ以来、尿酸値を下げる薬を飲み続けなければならなくなってしまった。だから後輩や部下たちには「走ったらしっかり水を飲め!」と口をすっぱくして言うようになった。同期の仲間からは「小平にいる間、うまいもんばっか食べてたんじゃないの?」と散々からかわれたが、毎日走ったおかげで体力も戻って体重もベスト、そのご褒美的なビールがこんな結末を招くとは、火箱がいちばん泣きたい気分だったに違いない。
そんなアクシデントはあったものの、業務学校での研究は順調に進み、火箱の研究成果の一部はその後の勤務評定にも反映された。手書きの分厚いレポートは、おそらく今も業務学校の図書室に保管されている。
思えば、これほど静かな環境で研究に単独で没頭できる機会というのは、入隊して初めてのことだった。部隊で指揮官として、学校で教官として、そして陸幕でと、さまざまな場所で20年以上にわたり勤めてきた火箱だが、業務学校での半年間はかけがえのない日々であり、学ぶことが多かった。ほかの幹部自衛官とは違うイレギュラーな人事ではあったが、火箱は今でもこの経験をありがたく思っている。
業務学校に所属中の1995(平成7)年1月17日、阪神淡路大震災が発生した。
東日本大震災では幹部学校に入校中の学生も駆り出されたが、阪神淡路大震災の際は小平にいる火箱に災害派遣の声がかかることはなかった。しかし未曽有の災害に自衛隊が派遣される様子がテレビで流れたこともあり(雲仙普賢岳における災害派遣もあったが、災害規模からしてインパクトが違った)、自衛隊の動きに世間も注目した。そして「自衛隊の初動が遅かったから犠牲者が増えた」という非難の声が上がった。
今でこそ、この声に異論を唱える一般の人もいるだろうが、当時は自衛隊に対する風当たりも強く、災害派遣を要請する県ですら要請手続きについてしっかり認識できていない時代だった。自衛隊も法の整備が整っていなかった当時、要請もないままに動くことは許されない雰囲気、環境にあった。
だからといってただ手をこまねいていたわけではない。第3師団(司令部は兵庫県・千僧駐屯地)管内の部隊は神戸市の近くまで来援し、要請があり次第投入する準備待機をしていた。しかし県の要請がないまま時間はじりじりと経過、そのうち大渋滞が発生し、結果的に神戸市中心部への投入が遅れた。この状況から「出るのが遅い」と自衛隊が一方的に責められたのだ。それが火箱は心底悔しかった。その悔しさはいつまでも残った。
(つづく)







