海自航空輸送部隊 第61航空隊(6)

今週からは、硫黄島へのフライトに同乗取材させてもらったことに関するレポートです。

太平洋戦争の激戦地として知られる硫黄島は、厚木航空基地からC-130Rで約2時間半。東京から沖縄本島よりも近いですが、遺骨収集や一部の人を除いて立ち入ることは許されない、近くて遠い島です。

戦前の硫黄島には約1100人の島民が暮らし、農業や漁業を営んでいたといいます。戦争が激化すると本土防衛の最前線となり、戦況が悪化した1944年夏には、軍属として徴用された男性103名を除き本土へ強制疎開させられました。翌年2月には米軍が上陸、日米両軍合わせて2万8000名もの犠牲者を出し、残された島民も82名が犠牲となっています。

厚労省の調査によると、硫黄島における日本軍の戦死者は約2万2000名。

その多くは米軍による火炎放射、注水、射撃、手りゅう弾などの攻撃により地下壕(全長18kmという長さ)の最奥に追い込まれ戦死したとされます。2023年末までに発見・収集された遺骨は1万652柱と、未だ多くの遺骨が島に残されています。

また、硫黄島は火山島のため自然の淡水源がなく、「渇水の島」と言われています。

現在の所在部隊のための水は海水を淡水化して生成、あるいは61空などの輸送に頼っています。水不足は今も変わらずで、現在も駐在の隊員には「ひとり1日○リットル」などの使用制限は珍しくありません。

硫黄島には海自の硫黄島航空基地隊と空自の硫黄島分屯基地が所在しており、海自の部隊は基地施設の維持、航空管制及び飛来する航空機に対する給油等の支援を行なっています。今回、61空の硫黄島往復輸送任務に同行取材する機会を得たのですが、その際も渇水制限が実施されており、クルーが知り合いの隊員への差し入れでペットボトルの水を持参していました。このようなやりとりは相互支援として慣習になっているとか。

かつて硫黄島で勤務していた幹部自衛官で、別の部隊の司令の時期に取材した際、雑談中に「硫黄島にいたときは殉職者のために、毎晩窓際にコップ1杯の水を置いていました。朝になると必ず空になっているんです」と真顔で言われたことがあります。戦時下の兵士たちの渇きの苦しさは、それほどまで筆舌に尽くしがたいものがあったということでしょう。

2025年3月末には日米合同の戦没者慰霊式が行なわれ、米高官として初めて国防長官が出席しました。さらに4月には上皇ご夫妻が在位中だった1994年に訪問して以来、31年ぶりに天皇皇后両陛下が硫黄島を訪問、苦しんだ兵士らをしのび水を捧げる「献水」をされています。

硫黄島には殉職者にまつわる逸話には事欠かず、駐在している隊員は多かれ少なかれ超常現象を体験するといます。それが、上皇ご夫妻が硫黄島を訪問されてから、そのような現象がぴたりとなくなったそうです。窓際の水といい、ありえないと一笑に付す人もいるかもしれませんが、いずれも過酷な自然環境の硫黄島に勤務した隊員たちの声だけに、聞き流すことはできないと感じます。

硫黄島往復のフライトに同乗が許されたのは、まずその日は臨時便で輸送物資に危険物がなかったことが大きいです。

当日は硫黄島に駐在する企業の社員もいたため、いわゆる危険物の搭載がなかったのです。この危険物とは弾薬といったものだけでなく、場合によっては発火の恐れがある塗料などまで含まれるのです。