神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(35)

思いもよらなかった異動先に気落ちしたものの、駆け出しの頃、世話になり尊敬していた上司が自分を買ってくれていたのはうれしかった。それに行きたくないと言ったところで、行かねばならないのが自衛隊である。気持ちを切り替えるしかなかった。着任したらすぐ日米共同訓練の案件に取りかからなければいけないことはわかっていたから、ならば期待に応える仕事をしてみせようと、自分を奮い立たせた。

結果として、西方での勤務は陸上自衛官としてきわめて多くのことを学び、体験することになった。九州・沖縄の防衛警備を担当する上級司令部であり、地方の特性を肌で感じることができる方面総監部に勤務することの重要性を、身をもって知ることになった。そのため、後に陸幕補任課長として隊員の人事に関わることになったときは「陸幕の担当者は陸幕内で異動させずどんどん外に出せ。地方に行かせろ」と、優秀な人材ほど積極的に地方勤務を経験させたほどだ。
また、西方では幕僚副長をはじめ陸幕で課長などを経験してきた尊敬できる先輩たちの指導を直接受け、育ててもらった。
「俺は、陸幕からは捨てられたかもしれないけれど、こうして拾ってくれた人たちもいる」
西方で新たな使命にまい進しながら、そんな思いが日々強くなっていった。

一九九〇(平成二)年三月。火箱は家族とともに熊本にやってきた。そして西方総監部訓練班長に着任早々、その年の冬に行なわれる第二回日米共同訓練に向けての準備を始めた。
火箱がなによりも重視したのは、地元との信頼関係の構築だ。第一回の共同訓練では結果的にその部分が後手になっていたため、地元住民の理解を得られないまま開催の運びとなり、大きな反発につながった。同じ轍を踏まないためにも、まずは地元の人々の信頼を得なければならない。そのため、発表のタイミングなども含めた広報戦略を立て、それに沿って進めた。

自治体や地元には自ら足を運び、「また米軍が来て共同訓練を予定しています。まだ詳細は決まっていませんが○月頃には陸幕が正式に発表しますから、どうぞよろしくお願いします」と、最初は文書に残さず口頭で挨拶をして回った。地元も新聞記事やテレビのニュースで共同訓練が行なわれることを知るより、自衛隊の担当者が直接説明に来てくれたほうが心情的に違ってくる。
だが、メディアは正式な発表がある前に報道したがる。案の定、地元の西日本新聞が第二回日米共同訓練についての記事を書いた。しかし火箱はあわてなかった。部下たちが一切口外していないことはわかっていたし、広報戦略にのっとって進めていたから、「うちは発表していません」と自信を持って言うことができたのだ。実際、記事は噂を元に前回の日米共同訓練を参考にして書かれた憶測記事で、今回の新たな情報はなにひとつ盛り込まれていなかった。
陸幕が正式に発表したのは、地元への説明がすべて終わってからだ。この丁寧な根回しが功を奏したのだろう、地元からの反発はあったものの、一回目のときに比べればはるかに規模は小さかった。
マスコミ対応は、陸幕広報の報道担当を経験した火箱にとってはなんら恐れるものではなかった。発表内容、部外対応のQ&Aの作成にいたってはもはや朝飯前だった。

高田や習志野の部隊にいたときは、まったく意識していなかった広報の役目とその重要性。それがわかった上で働くと、これまで見えなかったものも見えてくる。最初はあれほど嫌がっていた陸幕広報室勤務は、結局火箱に大きな財産を与えてくれていた。そして第二回日米共同訓練も、滞りなく成功裏に終わった。

(つづく)