朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜(26)




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はじめに

 

ウィロビーのバックグラウンドが彼の考え方に大きな影響を与えていた
という観点から、ウィロビーの経歴についてやや詳しく見てきている。

 

ウィロビーの履歴で特に注目すべき点は、下記の3点であった。

 

1、真偽は定かではないものの、ウィロビー自身の主張によれば、
ウィロビーはツェッペヴァイデンバッハ(Scheppe-Weidenbach)男爵
の息子であったこと。

 

2、1923年から1928年にかけて、ウィロビーは、ベネズエラ、
コロンビア、エクアドルの駐在武官として勤務した。その際、
ウィロビーはベネズエラ大統領ファン・ビセンテ・ゴメスに代表される
歴史に名高い独裁者たちと直接接触して権威主義的統治手法に感銘を
受けた。

 

3、ウィロビーは、権威主義的統治スタイルで知られるスペインの
フランシスコ・フランコ総統がスペイン内戦期に採用した戦術を研究し
それに関する著書を刊行するなど、フランコに心酔していた。

 

第二次世界大戦が勃発する以前のフィリピンのマニラに配属された
時代に、ウィロビーはフランコ総統率いる極右政党ファランヘ党を
熱烈に支持するスペイン人エリート層と密接な親交関係を結ぶように
なり、1952年にはフランコと面談し、自身がフランコの戦略を
称賛する講義を実施したことを自慢した。

 

 

ウィロビーのエリート主義的メンタリティー

 

ドイツの貴族社会の周縁部出身のウィロビーは、アメリカに移住する
以前、生誕地のドイツにおいて十代を過ごす過程でエリート主義的な
メンタリティーを発展させた。ドイツでのこの経験が、後年のウィロビー
の軍歴を通じて――そして退役後も――彼の心中でくすぶり続ける
反共産主義熱へと発展することとなった保守主義的政治観の基礎を
形成した。

 

また、中米各国の駐在武官としてウィロビーが目にした、ベネズエラの
ゴメス政権に代表される1920年代の権威主義体制は、強権的で
集権的な指導者の能力をウィロビーに強く印象付けた。

 

このような経験やエリート主義的メンタリティーは、ウィロビーが
マッカーサーの側近として仕える上で適したものであったが、
その反面、情報幕僚としてのウィロビーのリーダーシップの失敗の種
ともなっていた。

 

ウィロビーはマッカーサーの幕僚として勤務した10年以上の間、
主人ともいうべきマッカーサーに対し熱烈な忠誠心を抱き続けた。
さらにウィロビーは、第二次世界大戦の初期の頃からマッカーサー
がワシントンからの支援を得られなかったというマッカーサーの
見解を共有していた。

 

 

敵は身内にもいる 〜ワシントンの極東戦略は「敗北主義的」だ〜

 

アメリカによる日本占領の期間を通じて、極東軍司令部内部の
マッカーサーの側近たちは第二次世界大戦中に太平洋戦域で戦った
経験を持つ人々により構成され、第二次世界大戦を欧州戦域で戦った
将校たちはマッカーサーの側近から「脅威」と見られる雰囲気が
極東軍司令部内に存在した。

 

マッカーサー自身やその側近たちが欧州戦域に従軍した将校を
「脅威」と考えた背景には以下のような事情があった。

 

すなわち、第二次世界大戦においてドイツとの戦争がアメリカの
大戦略上メインの戦略目標とされて、対日戦争が二次的とされた結果、
マッカーサーが日本との戦争において要求していた戦争資源の多くが
欧州戦域に投入されたため、マッカーサーは戦争初期に苦戦を
強いられたという事情である。マッカーサーやその側近たちが
欧州戦域従軍者を「脅威」とみなしたメンタリティーは、このような
ワシントンの決定に対しマッカーサーが憤慨していたことに起因する
ものであったのだ。

 

歴史家のウィリアム・マンチェスターは、マッカーサーとその側近
たちの敵意が欧州戦域における連合国軍の勝利に対しても向けられ
ていたと指摘している。マンチェスターは、1945年3月、
アメリカ軍がライン川にかけられたルーデンドルフ橋(レマーゲン
鉄橋)をほぼ無傷で奪取することに成功したことを報じるニュース
を耳にした時のウィロビーの反応を以下のように指摘している。

 

「くそったれ。われわれは、欧州で起きたことのためにここから物資
を回さない」

 

1970年に日本で公開された往年のハリウッド映画「レマゲン鉄橋」
でも有名なこの橋は、ライン川にかけられ、レマーゲンとエルベルと
を結ぶ交通上の要衝であった。この当時、ドイツ国内に向け退却する
ドイツ軍は天然の要害であるライン川を盾にして防衛戦闘を実施する
ことを企図していたため、ルーデンドルフ橋はドイツ軍にとっては
絶対に破壊したいものであり、一方、ライン川を越えてドイツ内部
へ進撃する連合国軍にとってこの橋は絶対に無傷で確保したい目標
であった。ヒトラーがルーデンドルフ橋破壊に失敗した将校5名を
軍法会議にかけ4名を死刑(残りの1名は連合国軍の捕虜となって
いた)にしたことからもこの橋の重要性が窺い知れるであろう。

 

連合国側もドイツ軍が破壊することを予期していたため、橋が無傷
で残っていたことは連合国内で「レマーゲンの奇跡」と呼ばれ、
アイゼンハワー元帥はレマーゲン鉄橋を「橋の重さ分の金と同じ
価値がある」と述べている。

 

この橋の奪取により、連合国軍はベルリンへの橋頭保を確保した
わけであるが、ドイツ軍を降伏に追い込むことのできるこの決定的
時期に至ってもなおウィロビーは僅かな軍需品であっても欧州戦域
に回さないと必死になっていたのである。

 

ウィロビーの発言に象徴されるこうした雰囲気はマッカーサー率いる
極東軍司令部内部に浸透しており、これまで縷述した1950年秋
のマッカーサーと統合参謀本部との間の摩擦の基礎を形成していた
のである。

 

上述した記述から推測できるように、ウィロビーは、大戦中に
ルーズベルト大統領とチャーチル首相とが合意しあった、日本降伏
を後回しにしてドイツ降伏を優先させる戦略も嘲笑していた。

 

ウィロビーは自身の著書『マッカーサー 1941年〜1951年』
(MacArthur 1941-1951)の中で、マッカーサーが両首脳間の合意
に関して何も知らされていなかったと主張し、この戦略を以下のよう
に激しく非難している。

 

「彼[マッカーサー]は、ワシントンにいる軍事戦略および外交戦略
の首脳が1942年初期に追い求めた敗北主義的な極東戦略を全く
理解することが出来なかった」

 

この批判と類似した内容の記述は、トルーマンが1951年に
マッカーサーを解任した後にウィロビーが書いた書翰の中にも見る
ことができる。ウィロビーは、第二次世界大戦の間から朝鮮戦争に
至るまで、敵国軍隊とだけではなく、ワシントンの政策決定者という
身内の敵とも戦闘を展開していたのである。

 

 

極東軍司令部G2の歴史からマッカーサーの個人伝へと変化したマッカーサー戦史の編纂過

 

日本降伏直後から朝鮮戦争勃発までの期間、ウィロビーにとって
最も重要なプロジェクトの一つがマッカーサーが太平洋で実施した
作戦に関する戦史の決定版を刊行することであった。1946年に
開始されたこのプロジェクトは、ウィロビーが東京で調査および
編集のためにかなり多数のスタッフを使用したためかなりの規模の
事業となった。

 

マッカーサーの副官であったローレンス・バンカー大佐は、ウィロビー
の編纂によるこの本が、もともとは極東軍司令部第二部の歴史として
編纂が始まったにもかかわらず、ウィロビーと出版社であるマグロ
ウヒル社(McGraw-Hill)との議論の後に、極東軍司令官マッカーサー
「個人」の「伝記」にその性格が変化したと回顧している。
書籍の性格が組織の歴史から個人の伝記へと変化した背景には、
マッカーサーというビックネームをマーケティング・ツールとして
使用したい出版社の意向が強く働いたという事情があるのであろう。

 

如上のような経緯を経て最終的に、この書籍は太平洋戦域に関する
陸軍の公刊戦史になったのであるが、国防総省の戦史部が最終的な
編纂プロセスの一部分に関与することを要求した結果、1949年
にウィロビーはこの本の編纂を突然中止した。

 

本連載において何度も指摘しているように、マッカーサーとウィロビー
は、外部からのいかなる影響や干渉も好まない性格であったが、
戦史編纂の最終段階においてもその性格を発揮し、彼らは3巻構成の
戦史を出版しなかったのである。

 

編纂が途中で中止され未刊行に終わったこの戦史は、最終的に
ウィロビーが退役後に刊行した『マッカーサー 1941年〜1951年』
の基礎となった。しかし、本連載で批判してきたように、この本は、
ウィロビーが自身の庇護者であるマッカーサーを英雄化する意図の
もと執筆されているため客観性に欠け、事実ではない記述や誇張が
多数含まれており、史料として使用するには注意を要する書籍である。

 

ウィロビーによるマッカーサー崇拝は、1950年10月末にマッカーサー
が非武装の航空機で鴨緑江を空中偵察した際のマッカーサーの個人的
勇気をたたえる記述からもうかがうことが可能である。

 

ウィロビーは、自身が英雄視する極東軍司令官を讃えて、中国の
戦闘機が飛び回る中国の空域を通過したこの偵察飛行を次のように
表現した。

 

「空はこれよりも大胆な飛行をこれまで決して目にしたことはないであろう」

 

 

 

(以下次号)

 

 

(長南政義)

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最終回
【戦史に見るインテリジェンス活用の失敗と成功(その2)】  「朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜」(最終回)