朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜(15)




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はじめに

 

前回の連載で、国務省とマッカーサー率いる極東軍司令部との緊張関係を考察した。マッカーサーとその側近は「じかに接している仲間以外のあらゆる外部者を敵もしくは潜在的な敵と見なしていた」ため、ジェイムズ・バーンズ国務長官がマッカーサーを監視する目的で派遣したジョージ・アチソン上級代表もマッカーサーの司令部から離れた建物に追いやられ、マッカーサーを経由した情報しかアチソンに渡されなかったほど、国務省とマッカーサーの関係は緊張をはらんでいた。

 

では、統合参謀本部と極東軍司令部や、極東軍司令部内にはどのような対立が存在したのだろうか。今週はこの点を中心に筆を進めていきたい。

 

 

仁川上陸作戦をめぐる極東軍司令部と統合参謀本部との対立

 

クロマイト作戦(1950年9月15日実施の米第10軍団を主力とした仁川上陸作戦)は、極東軍司令部内部の緊張関係だけではなく、マッカーサーと統合参謀本部との緊張関係をも表面化させることになった。

 

マッカーサーは、クロマイト作戦で、仁川に上陸した米第10軍団(軍団長アーモンド少将)と、釜山橋頭堡から出撃する米第8軍(軍司令官ウォーカー中将)とにより北朝鮮軍を包囲する企図を有していた。マッカーサーは、太平洋戦争において11度もの水陸両用作戦を指揮した経験から着想を得て、米国が保有する圧倒的な海軍力・空軍力を利用し、敵の防御が貧弱な敵軍背後奥深くに侵入して敵の後方連絡線を遮断し、北朝鮮軍を南北から挟撃して袋の鼠にしようと考えていたのである。

 

マッカーサーは6月29日に漢江南岸を視察したが、クロマイト作戦の構想をこの時に考えたといわれている。以後、マッカーサーは仁川に攻撃をかけるという自身の希望を揺らぎのない確固たる信念として保持していたが、統合参謀本部と同様に極東軍司令部の参謀の中にもマッカーサーの仁川上陸作戦案に抵抗を示す者が存在した。

 

統合参謀本部は仁川に代わる上陸地点として仁川から約161キロメートル南にある群山を推薦した。統合参謀本部による代替案である群山上陸案は、釜山橋頭堡から出撃する米第8軍と上陸部隊である米第10軍団との間の距離を小さくすることで両軍の連携がうまく取れずに米第8軍と米第10軍団とが各個に撃破されるリスクを減少させようとしたものであった。

 

統合参謀本部案に対しマッカーサーは、北朝鮮軍を包囲する目的達成のために必要な程度、敵軍の後方深くに侵入した攻撃案ではないとして群山上陸案を批判した。マッカーサーは、統合参謀本部が主張する小さな包囲は、十分な数の北朝鮮軍を捕捉撃滅することができず、戦争を長引かせ、困難な冬季作戦につながると考えていた。

 

 

8月23日の東京会議で表面化した極東軍司令部内の対立

 

クロマイト作戦の妥当性に異議を唱えていた人物に、作戦計画立案に関与した数少ない幕僚たちの1人であるジェームズ・ドイル提督がいた。極東軍司令部で海軍の作戦計画立案を担当していたドイルはクロマイト作戦計画立案の全過程を通じ計画案に対しかなりの疑念を抱いていた。作戦機動の方法として強襲揚陸を実行するというマッカーサーの計画を支持する一方で、ドイルは上陸地点として仁川を選定することに反対していたのである。
8月23日、オマー・ブラッドレー統合参謀本部議長がマッカーサーに上陸地点を群山に変更させるため派遣したフォレスト・シャーマン海軍作戦部長、ロートン・コリンズ陸軍参謀総長らを会しての作戦会議が、東京の第一生命ビルで開催された。この席で、ドイルは以下のように述べることによってクロマイト作戦の成功の可能性に懸念を表明している。

 

「私は上陸作戦に関し意見を聞かれることもなかったし、自ら進んで自己の意見を述べたこともなかった。しかしながら、もし、私が意見を聞かれたならば、良く言ったとしても(仁川上陸は)不可能ではないという程度である」

 

クロマイト作戦が水陸両用作戦であったにもかかわらず、海軍側の作戦立案の責任者であるドイルの意見が尋ねられることがなかったというドイルのこの告白は、マッカーサーが、自身の幕僚たちに、自身の計画案に対する反対意見や代替案を提案することではなく、自身の考えに沿った賛成意見を述べることを期待していたことを示しているといえよう。

 

東京会談では、シャーマン海軍作戦部長やコリンズ陸軍参謀総長らによってマッカーサーの作戦計画案に対し、いくつもの問題点が指摘された。たとえば、陸軍の視点からする反対意見として、米第8軍が出撃する釜山は米第10軍団が上陸する仁川から240キロメートルも離れているので、挟撃実施のためには距離が離隔しすぎであるとか、マッカーサーがクロマイト作戦のために要求している兵力は日本に駐留する進駐米軍の予備兵力のほぼ全兵力に相当するので、日本の治安維持上、問題があるなどというものがあった。

 

また、海軍側からの意見として、仁川港の干満の差は最大10メートル、平均約6.9メートルと大きいため部隊の揚陸に非常な困難が伴う、仁川港へと続く水道が幅2キロメートル弱、長さ90キロメートルと狭隘なため、この水道を機雷で封鎖されてしまう懸念が高いこと、仁川港の入口に防衛堅固な月尾島が存在するため仁川上陸以前にこの島を奪取する必要があり奇襲の効果が望めないなどがあった。

 

しかし、ここで反対意見に対し威力を発揮したのはマッカーサーが得意とする雄弁であった。マッカーサーは45分もの大演説を展開し、仁川上陸で最大のネックとなっていた海象的な障害は困難ではあるものの米海軍の能力から考えて不可能な障害ではなく、米海軍が取り組むべき挑戦であるとの論旨で見事にシャーマン海軍作戦部長を説得することに成功したのである。以後、紆余曲折があったものの、最終的にマッカーサーは統合参謀本部からクロマイト作戦に対する不承不承の支持を得ることとなった。

 

 

クロマイト作戦の過程で影響力を増大させたウィロビー

 

多くの障害が存在したにもかかわらずクロマイト作戦は成功し、北朝鮮軍を壊走状態に追い込んだ。以降、マッカーサーとその側近たちは仁川上陸作戦の成功に疑念を抱いた将校たちに対する報復を開始した。この報復は将来の作戦でマッカーサーの作戦案に疑問を投げかける人々を孤立させ、それから2か月後、マッカーサー主導の鴨緑江への進撃計画の破滅的運命を回避させたかも知れない「悪魔の弁護(複数の情報分析者が両極端な物の見方をぶつけ、分析者間のコンセンサスに挑むやり方)」を妨げる結果になったのである。

 

クロマイト作戦はマッカーサーの幕僚たちの間におけるウィロビーの大きな影響力をはっきりと示した。その発言力の大きさは極東軍司令部参謀第2部を率いる一情報幕僚としての権限をはるかに超越するものであった。

 

ウィロビーは情報以外の問題であってもマッカーサーの意見を熱心に後押しした。クロマイト作戦初期の頃、ウィロビーは作戦計画に迅速に反応していないとして米第1騎兵師団長ホバート・ゲイ少将を厳しく非難した。ジェームズ・シュナーベルは『政策と命令 〜朝鮮戦争における米国の第一年目〜(Policy And Direction: The First Year United States Army in the Korean War)』の中で、次のように書いている。

 

「ウィロビーはゲイに勢いよく踏み出すか、取り残されるかだと警告した。というのも、もしゲイの上陸が遅れたならば、上陸時に米第1騎兵師団が遭遇するのはソウルへの北進時に米第24師団の後塵を拝する事態であろうからだ。」

 

このゲイに対するウィロビーの警告は、明らかに情報幕僚としての権限を越えるものといえるであろう。このやりとりは極東軍司令部の一情報幕僚が師団長を督励するという異常な光景を示しているだけではなく、この時点でのウィロビーの情報分析結果が仁川上陸時に米軍が最小限の抵抗にしか遭遇しないであろうというものであったことも示している。
しかしながら、確かに、統合参謀本部の懸念に反して米軍の進撃は快調であったが、米第10軍団は仁川上陸後にソウルで激しい市街戦に直面し、米第10軍団の仁川上陸に呼応してスレッジ・ハンマー作戦を開始した米第8軍も洛東江防御線からの突破に苦戦し、攻勢移転に転じたのは米第10軍団の仁川上陸から約1週間後であった。ウィロビーはクロマイト作戦開始前に予想した以上の北朝鮮軍による激しい抵抗に遭遇したのである。

 

 

情報収集と人種偏見

 

ところで、仁川上陸開始前、ソウル奪還における韓国軍の役割を強調したい李承晩は仁川の南南西約22キロにある霊興島に情報収集のため特殊部隊を派遣する決定を行った。

 

8月23日、韓国海軍の咸明沙少佐率いる17名の部隊が霊興島に到着した後、民間人に偽装して仁川に極秘潜入し、北朝鮮軍の兵力配置や仁川港の岸壁の高さなどを調査した。しかし、児島襄『朝鮮戦争』(文藝春秋、1984年)によれば、咸少佐はマッカーサーに有利なような情報を報告するよう求められていたという。

 

自身に有利な情報を受け取ったマッカーサーであったが、韓国軍による情報だけでは満足せず、「白人」の眼で情報内容を確認する必要性を感じ、米海軍のユージン・クラーク海軍大尉らを仁川港周辺の偵察任務に送り込んだ。

 

クラークは月尾島の防衛体制を調査するだけにとどまらず、仁川上陸作戦実施日の9月15日には、仁川港への進入水路を示す八尾島灯台を点灯し上陸部隊を誘導するなど大活躍し、この功績により海軍十字章(米海軍が授与する勲章のうち最高位の名誉勲章に次ぐ第二番目に高位の勲章)を授与された。

 

 

(以下次号)

 

 

(長南政義)

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