朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜(13)




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前回までのあらすじ

 

共産中国が北朝鮮領内に大規模部隊を投入したとする多くの情報が存在したにもかかわらず共産中国が朝鮮戦争に介入しないとの情報分析が生み出された「制度的要因」について考察を進めている。

 

前回、下記の点を指摘することで、国防総省内の各部局とCIAが、チャールズ・ウィロビー少将率いる極東軍司令部参謀第2部の情報に依存していたことを指摘した。

 

ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部(G2)は、毎日開催されるテレカンファレンスにおいて、陸軍省にアップデートされた最新の情報を提供していた。そして、ウィロビーの提出する情報日報が、米陸軍省参謀第2部により毎日刊行される統合情勢日報(Joint Daily Situation Report:SITREP)を含む大部分の情報報告書および情報分析の基礎となったこと。

 

また、CIAが出す「朝鮮情勢に関する日日情報要約」の作成の基礎となる情報の大部分も極東軍司令部参謀第2部の情勢分析に由来するものであったこと。

 

今回は、マッカーサー率いる極東軍司令部内の組織文化の点から考察を進めてみたい。

 

 

マッカーサー率いる極東軍司令部の閉鎖的性格

 

ダグラス・マッカーサー率いる極東軍司令部は、組織内の従順な人間が報われ、組織内部の反対意見が採用されにくいうえ、外部からの意見や影響を遮断するような閉鎖的傾向を持つ組織であり、マッカーサーの意向と異なる意見が現実の政策となることが妨げられがちであった。

 

マッカーサーは、太平洋戦争においてマッカーサーの司令部で幕僚として勤務し、大戦終了後の占領期に日本で占領統治にあたった者から自身の幕僚を選び、極東軍司令部を構成していたが、極東軍司令部の閉鎖的傾向は、この人事配置に萌芽を有するものであろう。

 

ウィロビーは、このようなマッカーサーと密接な関係にある幕僚の典型的人物である。ウィロビーは、マッカーサーが最も辛い経験をしたフィリピンのバターン半島をめぐる日本軍との戦闘の時代からマッカーサーと苦楽を共にしていた。バターンでの戦闘でマッカーサーは「ダグアウト・ダグ(待避壕のダグラス)」と揶揄され、バターン戦終了後には、米兵をバターンに置き去りにしてオーストラリアに逃亡したことを批判されたが、ウィロビーはマッカーサーが苦境にある時も幕僚として彼を献身的に支え続けた。ウィロビーのマッカーサーに対する熱烈な忠誠心は大戦終了後も変わらず、マッカーサーからの信頼も厚かった。

 

 

マッカーサー司令部の右翼的傾向

 

ウィロビーは、急進的な右翼的政治思想を持ち、日本占領期には、リベラルな政治思想を持ち日本国憲法起草にも貢献した民政局(GS)局長コートニー・ホイットニー准将を「ピンカーズ(共産主義者)」と呼んで毛嫌いしていた。GHQ内部では、ウィロビー率いる参謀第二部(G2)と民政局が占領政策の方針をめぐって激しい対立関係にあり、このため、共産主義運動や労働運動に対するGHQの方針が取締強化と認容政策との間で大きく揺れ動いた。

 

この他にも、ウィロビーが公職追放中であった服部卓四郎・元陸軍大佐を使って日本再軍備を計画したため、彼らを排除しようとする吉田茂の反発にあっていたことは有名な話であろう。

 

冷戦期の米国の対外政策に大きな影響力を持ち、米国の核戦略確立の面で大きな貢献を果たしたポール・ニッツエは、1950年1月、ジョージ・ケナンに代わり国務省政策企画本部長に就任した。ニッツェは、この頃のウィロビーについて、「ウィロビーはマッカーサーのインナー・サークルでマッカーサーからの信頼の厚い人物であった」という趣旨の回想を残している。ニッツェはさらに極東軍司令部内の雰囲気に関しても以下のような証言を残している。

 

「マッカーサーの幕僚として仕えている人々たちのうちの何人かは一種の右翼的なおべっか使いである」

 

そして、ウィロビー自身も、このニッツェの見解を裏付ける言葉を述べている。もし国連軍が38度線を越えて北朝鮮領に侵入するならば介入するという中国側のレトリックに関して、ウィロビーは後に「共産主義の支持者とその尻馬に乗るやつが、この恐喝に即座にグラついた」と述べているのがそれだ。

 

そして、ウィロビーによるこの強烈な一言は、ウィロビーの見解では毛沢東が朝鮮半島に関与することを思い止まらせるために何の対策も取ろうとしないワシントンにいる政軍指導者層に対して向けられたものであった。

 

 

関係政府機関との関係を複雑にした極東軍司令部の組織文化

 

極東軍司令部内の閉鎖的な組織文化は、極東軍と麾下部隊との関係や極東軍とワシントンの重要な政府機関(統合参謀本部・国務省・CIAなど)との間の関係に大きな影響を与えていた。

 

極東軍司令部が外部に対して閉鎖的性格を持つ組織であることを冒頭で指摘したが、マッカーサーは外部からの意見を要求することもなく、むしろ外部からの意見を嫌う傾向があった。

 

特に、統合参謀本部からの意見に対してはこの傾向が強く見られた。最終的に仁川上陸作戦へとつながる作戦立案過程の際に、マッカーサーは統合参謀本部に対し作戦計画作業の進展についてあまり報告しなかった。この当時のマッカーサーは兵力要求に関する書類を除いては作戦計画案を統合参謀本部に提出せず、最小限の作戦計画の概略のみを統合参謀本部に提出しただけであった。

 

これまでの連載で考察してきたようにクロマイト作戦(仁川上陸作戦のコード・ネーム)、38度線を越える意思決定、ウェーク島会談の各事例の中に、1950年11月に中国の朝鮮戦争介入をめぐるインテリジェンスの問題を紛糾させることになる組織的摩擦を生み出した原因が存在していた。

 

この他に、インテリジェンスの問題を紛糾させ情報の失敗を招く原因の一つとなった組織的要因として、マインドセットの問題を指摘できる。マインドセットとは、無意識的にある一定の考え方や思い込みに陥ることを指す。1950年10月の時点において、ほとんど全ての米政府機関が「戦争は終末段階」にあると確信していたが、これはマインドセットの典型例であり、このこともマッカーサーが運命の11月攻勢を決断するのうえで大きな影響を与えていた。

 

組織間の連絡・調整・協力面での著しい困難がウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部とCIAとの間の関係を特徴づけていた。極東軍司令部参謀第2部とCIAとの両機関が調整や協力面でしっくりこなかった原因は、第二次世界大戦以来、ウィロビーがマッカーサーの司令部の管轄領域内にあるすべての情報収集・分析活動に対する統制権を要求していたことに由来するものであった。

 

ウィロビーがこのような要求をした背景には、彼が第二次世界大戦中の経験や教訓を通じて中央集権的な情報活動を好むようになったという点があった。そして、この情報収集・分析面での中央集権化は、ワシントンの政府組織をしてマッカーサーとウィロビーの見解のみに耳を傾けさせしむことを可能にした。

 

 

CIAとG2との気まずい関係 〜活かされなかったシングローブ情報〜

 

朝鮮戦争の間、極東軍司令部参謀第2部が情報活動を統制していたことは、独立した情報分析を行うCIAの能力に悪影響を与えた。CIA長官のウォルター・ベデル・スミス陸軍大将はインテリジェンスに関する問題で協力を行う際のウィロビーの態度に不満の弁を述べていた。このことはインテリジェンスの大部分がウィロビーの指揮する情報機関からの情報を情報源としていた点を考慮すると重要な問題であった。

 

スミスは第二次世界大戦勃発当時、陸軍参謀本部に勤務しており、米軍が北アフリカに侵攻する際に欧州戦域司令官ドワイト・アイゼンハワーの補佐官に任命された。

 

その後、スミスは連合国遠征軍最高司令官に就任したアイゼンハワーの参謀長として欧州戦線で活躍し、連合国各国の軍人間の調整に力を発揮した人物である。大戦終結後の1946年には、トルーマン大統領の要請でソ連大使に就任している。

 

1950年10月にCIA長官に任命されたばかりのスミスは、アジアにおける経験不足を補うために、大戦を太平洋戦域で戦ったウィロビーによる朝鮮半島に関する情勢分析に依存するようになった。

 

ソ連大使としてのスミスの経験は、ソ連の脅威に関する多くの知識をスミスに与えていたが、スミスがCIA長官に就任した後も彼の注意をソ連にひきつける結果も招いた。スミスおよびCIAのその当時の世界観は、第三次世界大戦へとエスカレーションする潜在的可能性を秘めた攻撃的で一枚岩の共産主義陣営の脅威が強いものであった。

 

朝鮮戦争開戦前の1950年6月頃から、朝鮮半島においてCIAの諜報活動の中心的人物であったのが、ジャック・シングローブである。シングローブは第二次世界大戦中、CIAの前身であるOSS(戦略情報局)のエージェントを務めた人物で有能な情報将校であった。

 

シングローブは、特殊部隊ジェドバラのメンバーとしても著名であり、1944年8月には戦線後方深くにパラシュートで降下してレジスタンスのメンバーと協力し破壊工作に従事した。大戦終結後には、CIAのオフィーサーとして国共内戦下の満州で諜報活動に従事している。シングローブは朝鮮戦争後も、ベトナム戦争ではホーチ・ミン・ルート沿いで特殊作戦を指揮したり、ニカラグアの親米反政府民兵組織コントラの作戦活動に関与したりするなど、秘密戦争の世界で生きた人物であった。

 

シングローブの指揮の下で朝鮮半島において諜報活動にあたっていた諜報員たちは、北朝鮮による6月の韓国侵攻準備を詳述したきわめて精確な情報報告書を提出していたが、この当時のシングローブはウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部と対抗関係にあったため、シングローブの諜報員が集めた情報がマッカーサーを含む上層部の意思決定に強い影響を与える状態ではなかった。

 

もし、CIAと極東軍司令部参謀第2部が協力関係にあったならば、シングローブの諜報活動の経験と彼が指揮する諜報員ネットワークが、マッカーサー率いる極東軍司令部にウィロビー情報と異なる視点で書かれた優れた情報分析・評価結果を提供したかもしれない。

 

もしも、シングローブ情報が活用されていたとすれば、朝鮮戦争開戦時に不意を衝かれた米軍が潰走状態で釜山橋頭堡に逃げ込むような惨事が避けられたかもしれない。

 

しかし、ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部とCIAとの間のぎこちない関係が、両機関の理想的な協力関係の実現を妨げ、両機関の調整されざる諜報活動につながる結果となったのである。

 

 

(以下次号)

 

 

(長南政義)

 

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【戦史に見るインテリジェンス活用の失敗と成功(その2)】  「朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜」(最終回)