朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜(25)




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はじめに

 

前回までの連載で、ウィロビーのバックグラウンドが彼のキャリアや
考え方に大きな影響を与えていたという観点から、ウィロビーの経歴
についてやや詳しく述べてきた。

 

謎に包まれた出自から始まって、第一次世界大戦への従軍、戦間期
に中米諸国の駐在武官を歴任し、駐在武官時代にウィロビーが独裁者
の強権的統治手法に親近性を持ったことを指摘した。そして、
1939年、ウィロビーはその後の人生を変える運命の出会いをする。
すなわち、彼はフィリピンに配属されマッカーサーの部下として
仕えることとなったのである。

 

今回は、第二次世界大戦におけるウィロビーの活躍から見ていく
ことにする。

 

フィリピンにおけるウィロビーの武勲

 

第二次世界大戦におけるウィロビーの軍歴は、彼がフィリピン防衛
を支援するために熱に浮かされたように働き武勲を挙げたものの、
フィリピン脱出という結果に終わる不吉なスタートで始まった。

 

ウィロビーは指揮官が致命傷を負ったフィリピン保安中隊の指揮権
を継承し、この部隊を指揮することで武名を挙げた。この戦勲に
より、ウィロビーは敵対する武装勢力との交戦において勇敢さを
示した軍人に対し授与される銀星章を受けた。

 

戦闘後にウィロビーに授与された銀星章の賞状によれば、
「機関銃および迫撃砲火の下で部隊を集結させ、日本軍に対する
反撃を成功に導いた」功績があった。フィリピンにおける防衛戦
の後、ウィロビーに幸運が訪れた。すなわち、マッカーサーが
バターン半島からオーストラリアに司令部を後退させた際に、
ウィロビーはマッカーサーと共にフィリピンを脱出する数少ない
将校の1人に選ばれ、無事にオーストラリアに上陸するという
幸運に接することができたのである。

 

情報活動の集権化のためのウィロビーの戦い

 

第二次世界大戦におけるマッカーサーの情報幕僚として、
ウィロビーが主たる活動目標としたのは、広大な南西太平洋戦域が
内包する距離という名の暴君や統合・連合作戦によりもたらされる
数多くの困難に打ち勝つことができる効果的な情報組織を開発する
ことであった。そして、ウィロビーはこの困難に対処していく過程
で、中央集権化された諜報活動の必要性を強く認識することとなった。
このことが、朝鮮戦争でウィロビーが朝鮮半島での諜報活動を
他の組織を排除してまで自身が率いる極東軍司令部参謀部第二部に
集権化させる原因の一つとなった。

 

ウィロビーは情報活動に対する集権化された統制という自身の哲学
を公然と擁護している。たとえば、1948年にウィロビーが
承認・決裁した『連合軍総司令部第二部、南西太平洋方面作戦概史』
という文書の中で、ウィロビーは序文において以下のように明確に
述べている。

 

「あらゆる作戦部門が情報機関や情報関係部門を統制していたが、
G2(第二部:情報部)は情報の集権化のために絶えず戦ってきた。」

 

ウィロビーによるこの記述は、同一戦域内における自身の管轄外に
ある情報機関による情報活動に対するウィロビーの確固として
揺るぎのない抵抗ぶりを示している。

 

さらに1949年に、ウィロビーは、『ニューヨーク・タイムズ』誌
のフランク・クラックホーンに対し誇らしげに以下のように述べている。

 

「私は、CIAの前身である戦略情報局(OSS)を太平洋戦役の間、
太平洋戦域から排除し続けることに成功した。」

 

ウィロビーが第二次世界大戦中にOSSを太平洋戦域から排除する
ことに成功したことにより、大戦後もマッカーサーが権限を持つ
地域内においてウィロビーはCIAのような他の情報機関を排除して
あらゆる情報活動を中央集権的に運営することが可能となった。
そして、「OSSを太平洋戦役の間、太平洋戦域から排除し続ける
ことに成功した」というウィロビーのメンタリティーが、1950年
の死活的に重要な時期に、CIAと極東軍司令部参謀第二部とが、
危機の時に必須となる情報機関同士の緊密な協力と調整に失敗する
要因となったのである。

 

ウィロビーの性格的欠点が生み出した極東軍司令部内の機能不全

 

ウィロビーが第二次世界大戦中、日本人捕虜に対する尋問や鹵獲文書
の翻訳を担当する連合軍翻訳通信班や、諜報および謀略を担当する
連合軍諜報局を指揮して、日系アメリカ人やニューギニアなどの
現地住民を諜報員として使い、日本軍の動向を偵知するうえで辣腕
をふるったのは確かなことであり、この功績については彼の敵対者
も認めている。

 

しかし、ウィロビーと親しい人物でさえ、ウィロビーが高度な知性
を持った人物ではあるものの、一緒に仕事をしにくい人物であった
ことを認めている。たとえば、ウィロビーと同じく「寵臣」として
マッカーサーからの信頼が厚かったエドワード・「ネッド」・アー
モンド陸軍少将(朝鮮戦争勃発後約二か月後に第10軍団長として
転出するまで、日本占領期にマッカーサー率いる極東軍司令部の
参謀長として活躍した人物)は、情報幕僚としてのウィロビーの
経験と手腕を認めたうえで、ウィロビーの性格的特徴に関し以下の
ように述べている。

 

「彼は時に激しやすく、自分自身の意見と一致しない他者の意見を
拒絶する傾向にあった。こうした理由のため、多くの人が彼の手法
を好ましいものと思っていなかった。」

 

マッカーサーの参謀長にしてマッカーサーの擁護者としても有名で
あったアーモンドは、極東軍司令部の上級情報幕僚が自身の分析や
アイデアと異なるものを決して受け入れないという事実に気が付い
ていた。アーモンドによるウィロビーの人物描写は、自身の観点や
自身が導き出した結論と異なる分析から何らかの知見を得たり、
結論が異なる他の情報見積もりを自身の見積もりと比較する分析
手法とは対照的に、ウィロビーが情報日報(DIS:Daily
Intelligence Summaries)の作成過程に個人的に深く関与して自身の
イメージのみをDISに反映させていたことを示唆している。

 

そして、アーモンドは、次のような記述でウィロビーに関する自身
のコメントを締めくくっている。すなわち、

 

「2人の将校がそのキャリアの初期から一緒に勤務していたとしても、
2人がいったんマッカーサーの幕僚となったならば、ウィロビーは
自身の意見をもう1人と協議することはめったにない。」

 

このような重要な役職についている幕僚間のコミュニケーションの
欠乏がマッカーサー率いる極東軍司令部内の機能不全を生み出す
原因となっていた。

 

右翼的政治観というウィロビーの欠点

 

ウィロビーは彼のキャリアを通じて右翼的政治観を一貫して示して
おり、この政治観が彼の分析にかなりの偏向的影響を与えていた。

 

1945年9月、マッカーサーの司令部が東京に移転して間もなく、
ウィロビーは、ムッソリーニのファシスト政権下で派遣された
元駐日イタリア大使と親交を結ぶようになった。ウィロビーが独裁者
ムッソリーニに対し親近感を示したのはこれが初めてというわけ
ではない。たとえば、戦間期の1936年、歩兵学校教官時代に、
ウィロビーはムッソリーニを称賛している。ジョン・シムキンは、
独裁者に対するウィロビーの称賛の言葉を以下のように引用している。

 

「時代の感情的高揚感から自由な立場にある歴史的審判は、白色人種
の伝統的な軍事的優越を再確立することによって(白人の)敗北の
記憶を一掃した功績をムッソリーニに帰することになるであろう。」
(1936年の第二次エチオピア戦争におけるイタリア軍の勝利と
イタリア領東アフリカ帝国成立に関しての発言)

 

ウィロビーはイタリアのファシストであるムッソリーニだけでは
なく、スペインの独裁者フランシスコ・フランコ総統も尊敬していた。
スペイン内戦に関する自身の著書『戦争における機動』の中で、
ウィロビーはフランコを以下のように讃えている。

 

「高等統帥の観点からみると、フランコ将軍のある特質が容易に
認識でき、それがフランコを偉大な指揮官の一人としている。
その特質とは、部隊をある戦域から他の戦域へと迅速に移転させる
というフランコの柔軟な戦略的特質である。換言するなら、これ
こそが機動の本質である。」

 

フランコが機動を活用して勝利を収めたことに対する称賛の中には、
ウィロビーがその約十数年後にマッカーサーを称賛することになる
理由の一端が見て取れる。すなわち、フランコ同様にマッカーサーも
戦略的機動を活用して戦勝を収めた人物であるということである。
これまでの連載でも見てきたように、マッカーサーは戦略的機動を
重視し、第二次世界大戦の太平洋戦域では日本軍の強固な拠点を
迂回する蛙飛び戦略で日本を降伏に追い込み、朝鮮戦争では
仁川上陸作戦で戦局を一変させた指揮官であった。

 

第二次世界大戦が勃発する以前のフィリピンのマニラに配属された
時代に、ウィロビーはフランコ総統率いる極右政党ファランヘ党
を熱烈に支持するスペイン人エリート層と密接な親交関係を結ぶ
ようになっている。ウィロビーのフランコ熱は止まることを知らず、
ついにはマッカーサーが彼の前に登場してフランコを追い越すまで、
フランコを世界で二番目に偉大な指揮官として見なすまでになり、
1952年にはフランコを訪問し、自身が戦間期に米陸軍指揮
幕僚大学教官として講義中にフランコの戦略を称賛する講義を
実施したことを自慢するまでに至った。

 

 

(以下次号)

 

 

(長南政義)

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第35回
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最終回
【戦史に見るインテリジェンス活用の失敗と成功(その2)】  「朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜」(最終回)