朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜(8)




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前回までのあらすじ 〜米第8軍方面の戦況〜

 

1950年10月25日から11月1日にかけて、国連軍は清川江や雲山周辺で多数の中国人兵士を捕虜にした。尋問により得られた供述を基に作成された報告書は、第40軍所属の50万〜60万人の中国人部隊が朝鮮半島に所在していると指摘していた。

 

11月1日午後、1機の米軍偵察機が、未確認の大規模な歩兵部隊が清川江に向け南進中であることを発見した。第1騎兵師団師団長のゲイ少将は広範囲に分散している彼の部隊を統合するために第8騎兵連隊を雲山の南方へ退却させる許可を取ろうとしたが、上級司令部の米第1軍団はゲイ少将の申請を却下した。

 

米第8軍司令部参謀第2部(情報部)のターケントン中佐は、人民義勇軍2個野戦軍隷下の部隊が米第8軍と現在交戦中であると気づいたことで、第8騎兵連隊の雲山での戦闘が持つ重要な意味を理解し、報告書の中で明確に指摘した。

 

これを受けた米第8軍軍司令官ウォルトン・J・ウォーカー中将はマッカーサーに宛て至急電を打電していた。その至急電には「新鋭のよく組織化され十分な訓練を受けた部隊――そのうちのいくつかは人民解放軍である――による待ち伏せ攻撃と奇襲」というタイトルが付されていた。

 

11月1日の夜から2日早朝にかけて戦われた雲山の戦闘で第8騎兵連隊が敗走した後、極東軍司令部参謀第2部(情報部)のチャールズ・ウィロビー少将はウォーカー中将と会談する目的で平壌に飛んだ。朝鮮半島を視察したウィロビーによる11月3日付の情報見積は人民解放軍部隊が北朝鮮で国連軍と交戦していることを反映した内容であったが、ウィロビーは中国が朝鮮戦争の性格を劇的に逆転させるような規模と方法で反攻作戦を展開しているとまでは評価しなかった。

 

なお、以下の文中では、人民解放軍と人民義勇軍の記載があり表記が統一されていないが、朝鮮戦争に参戦したのは、人民義勇軍である。この名称は、ソ連から朝鮮戦争不拡大の方針を示された中国政府が、参戦する人民解放軍を「人民義勇軍」の名称で投入したことに由来する。そのため、基本的には人民義勇軍を使用し、史料として使った報告書類で人民解放軍が使用されている場合は、人民義勇軍と修正せずに、原文のまま人民解放軍と表記した。

 

 

米第10軍団方面の戦況

 

さて、前回までの連載では、朝鮮半島の西部に展開するウォーカー中将率いる米第8軍方面の戦況を述べてきたが、朝鮮半島東部で作戦活動を行っている米第10軍団方面はどのような状況にあったのであろうか。

 

朝鮮半島の西側に展開する米第8軍が人民義勇軍と交戦し中国人兵士を捕虜にしていた一方で、マッカーサーの寵臣エドワード・アーモンド少将率いる米第10軍団(米第1海兵師団、米第3歩兵師団、米第7歩兵師団および韓国軍の歩兵師団で構成)も朝鮮半島の反対側で米第8軍と同じような経験をしていた。

 

米第1海兵師団は10月25日に最初の中国人兵士を捕虜にし、同日、韓国第1師団も清川江の周辺地域で中国人兵士を初めて捕虜にした。米第10軍団の隷下にある韓国軍第26歩兵連隊の米国人軍事顧問は連隊が捕らえた捕虜が人民義勇軍所属の兵士であることを確認した。その捕虜の供述によれば彼は人民義勇軍第8軍隷下の第5連隊所属の兵士で、この周辺に約5000人以上の人民義勇軍部隊が展開しているということであった。

 

25日以降の数日間、警戒部隊からの報告は多数の中国人兵士が丘陵地域で移動中らしいことを確認していた。10月28日、米第10軍団指揮下にある韓国軍部隊が、米第10軍団の鴨緑江への前進軸上に位置する水洞付近で2名の中国人兵士を捕虜にした。10月30日、アーモンド少将は咸興に所在する韓国軍第1軍団司令部を訪問し、直接16人の中国人兵士捕虜を尋問し、中国人兵士は10月14日から開始された北朝鮮への浸透作戦についてより詳細な情報を供述した。

 

この情報を得たアーモンド少将は、米第10軍団が人民義勇軍と接触したことを直ちに無線を使いマッカーサーに報告した。アーモンド少将は彼のパトロンであるマッカーサーに対し確固とした忠誠心を持っていたが、彼が軍団長を務める米第10軍団司令部は、中国政府が米第10軍団の作戦地域で部隊を活動させている多くの徴候があることをマッカーサーとウィロビーに繰り返し報告した。元山北方で中国人部隊と最初の接触をした後で、10月29日に米第10軍団司令部参謀第2部(情報部)は「人民解放軍部隊が国連軍と交戦状態に入った」と報告した。

 

10月31日までに、アーノルド少将の米第10軍団は長津湖周辺で18人の中国人兵士を捕虜にした。直ちに尋問が行われ尋問報告書が作成された。この尋問報告書によれば、この捕虜たちが人民義勇軍第124師団に所属し、捕虜たちは3日間何も食べていないが、冬期用の被服を支給され十分な装備を持っているとされていた。

 

11月8日、米第1海兵師団の右翼に隣接し展開する米第7歩兵師団は、人民解放軍と「思しき」大隊と交戦した。米第7歩兵師団は、戦闘報告書の中で、敵軍が退却する前に少なくとも50人の中国人兵士を殺害したと報告している。この時点までに、元山周辺に位置する米第3歩兵師団を除く、米第10軍団隷下の全ての師団が人民義勇軍の激しい抵抗を経験していたのであった。

 

10月30日までに、朝鮮半島に展開する国連軍を構成する2個野戦軍の司令官の双方――米第8軍司令官ウォーカー中将と米第10軍団司令官アーモンド少将――が数百キロ離れた戦線において中国人兵士を捕虜にしていた。米第8軍から米第10軍団まで地理的に離隔する幅広い地点で捕虜が捕らえられていた事実は、人民解放軍部隊と国連軍との接触が孤立した偶発事件ではなく、人民義勇軍が北朝鮮領内で大規模展開していることを意味していた。

 

 

ウィロビー、情報の「統合」に失敗する

 

インテリジェンスとは、個々の断片的なデータ(ないしはインフォメーション)を比較・分析・評価して産出される加工品である(ちなみに自衛隊ではインテリジェンスは「加工情報」と訳されることもある)。したがって、個々のバラバラのインフォメーションを評価分析し正しい全体像を描き出すのが情報任務に携わる組織や人物の手腕の見せ所ということになる。

 

朝鮮戦争のこの時点で、ウィロビーは、戦術レベルの情報(捕虜となった中国人兵士からの供述・水洞や雲山附近の戦闘において人民義勇軍が実証した戦術能力の高さ)・作戦レベルの情報(満州において中国側の軍隊やインフラが増強されている事実)・戦略レベルの情報(10月初旬に出されていた周恩来ら中国要人による外交的警告)を比較・統合すべきであった。

 

もし、ウィロビーが断片的な情報というパズルのピースを比較・統合していたならば、「人民義勇軍の朝鮮戦争介入」という全体像を把握できていた可能性が高い。1950年11月第1週の週末までに、ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部(情報部)は北朝鮮領内に展開する人民義勇軍の戦闘序列を再現するのに十分なインフォメーションを所有しており、中国共産党が朝鮮戦争に「すでに」干渉しているという結論を導き出すことができたはずである。つまり、ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部は、インフォメーションをインテリジェンスとして加工することに失敗したのである。

 

北京にいる周恩来ら中国指導者が発した声明にちりばめられたレトリックは国連軍との交戦で捕虜となった中国人兵士に与えられた政治教育――政治的洗脳――の中にも反映されていた。そこには1つのテーマが明確に存在した。すなわち、1950年7月以来満州に展開した人民義勇軍の大部分は米軍主導の帝国主義的軍隊が満州国境に到達する以前に帝国主義の軍隊を撃破する目的で北朝鮮領内に侵入したのである。そして、このことを国連軍の捕虜になった中国人兵士たちは尋問官に供述していたのである。

 

 

ウィロビー、中国の「意図」を見抜くことに失敗する

 

極東軍司令部参謀第2部の情報日報(DIS:Daily Intelligence Summaries)の記述を精読してみると、ウィロビーが大規模な人民解放軍が満州で集結中であることや、人民解放軍が10月中旬までに北朝鮮領内に投入されていたことを正確に認識していたことがわかる。しかし、ウィロビーは傲慢にも毛沢東の戦略的意図を示すそのような徴候を無視してしまった。

 

政策立案者や情報を使用する側は「簡明にして明確」な情報分析を求める傾向にあるが、実際の情報報告書は「冗長にして曖昧――どっちともとれる――」内容になりがちな性格を有する。上述のような問題があったものの、ウィロビーの分析も「どっちともとれる」性格をしていたが、ウィロビーの反共的傾向を反映してか「中国共産党が国連軍に脅威を与えている」という一点だけはウィロビーの分析においても明確であった。この1点に限ってはウィロビーの先見性は評価されるべきである。

 

しかし、このようなウィロビーの中国脅威論とでも評すべき分析評価にもかかわらず、極東軍司令部参謀第2部の分析は、人民解放軍が前例のない規模で行動に出る意図と能力を有するという複数の情報源からの報告を無視していた。

 

この情報分析の失敗の最も悲劇的例は、10月28日に出された情報日報(DIS)が、前線から多数の交戦報告が上申されていたのにもかかわらず、中国の意図を見逃したことである。「脅威」とは、敵国の「能力」とそれを行使する「意志」の両側面から構成される。ウィロビーは、朝鮮戦争の勃発当初から米国の極東政策に脅威を与える中国の「能力」については正確に認識していたが、中国の「意図」を示す明確な徴候を無視してしまい、その結果として、ウィロビーは、マッカーサーが中国側の脅威に効果的に対処できるよう適切な助言を与えることに失敗してしまったのである。

 

 

正確であった、朝鮮戦争初期の頃のウィロビーの対中認識

 

朝鮮戦争勃発初期のウィロビーの評価は、朝鮮戦争での紛争に対応して、中国が満州で軍事的即応性を向上させつつあることを認識していた。7月3日までに、ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部は、「中国が2個騎兵師団と4個軍(12万人)を満州に駐屯させている」と報告していた。

 

9月2日付の情報日報(DIS)は、人民解放軍4個軍が「すでに」北朝鮮領に入っているという8月29日付の「誤った」報告を強調する内容であった。人民解放軍の大規模な介入を誤って報告したことで、極東軍司令部参謀第2部の情報分析の信頼性は低下してしまった。

 

9月8日付の情報日報(DIS)は、台湾の蒋介石率いる国民党国防部によって提供された情報を引用していた。国民党国防部の情報によれば、もし朝鮮半島での戦争が北朝鮮に不利な戦況となったならば、中国共産党が朝鮮半島で国連軍に対抗するために人民解放軍第4野戦軍を投入する可能性が高い、ということであった。

 

ウィロビーは、1954年刊行の彼の著書である『Macarthur:1941-1951』の中で、この情報を強調し、8月27日に国民党が、中国共産党が朝鮮戦争に介入するつもりであるとの警告を出していたと明言している。

 

セルゲイ・ゴンチャコフは、共著『Uncertain Partners』の中で、中国の中央軍事委員会が7月7日という早い時期に人民解放軍の第4野戦軍を中朝国境に転進させる決定を下したと指摘している。人民解放軍の中で最も能力の高い部隊の1つである第4野戦軍が満州に配置されたことの意味は明白である。

 

ジェームズ・シュナーベルは、その著書『United States Army in the Korean War :Policy and Direction, The First Year』の中で、9月中旬の仁川上陸作戦の成功の直後、「ウィロビーは、45万人の中国軍が満州に集結していたと推測していた」と指摘している。
9月中旬の時点で、ウィロビーは、中国が鴨緑江における国連軍のプレゼンスを「中国共産党体制に対する重大な脅威」として認識し、彼が作成した報告書の中にもそのように記述していた。このウィロビーの報告書は、ウィロビーが陥っていた西側の価値観から中国の意図を分析するという思考法を脱却し、中国側指導者の視点や価値観から中国の意図・目的を正確に分析する内容であった。

 

しかし、不幸なことに、仁川上陸作戦の大成功とその後に生じた北朝鮮軍の急速な崩壊が、戦勝が近いという誤った高揚感を極東軍司令部内に醸成し、マッカーサーに鴨緑江への攻勢を決断させ、ウィロビーをしてマッカーサーの作戦案を支持するために情報評価を偏向させる結果を招来したのである。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(長南政義)

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最終回
【戦史に見るインテリジェンス活用の失敗と成功(その2)】  「朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜」(最終回)