朝鮮戦争における「情報の失敗」 〜1950年11月、国連軍の敗北〜(10)




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ウィロビーの転向が引き起こした情報分析の「偏向」

 

1950年10月15日のウエーク島会談の後、ウィロビーによる情報分析は、マッカーサーが推進する朝鮮戦争早期終結のための鴨緑江への進撃計画を支持する性格をますます強めていった。客観性が要求される情報分析におけるウィロビーの「偏向」的傾向は、中国政府がすでに北朝鮮領内へ人民解放軍を移動させた、ないしは他国に気づかれることなくそうする準備をしているという複数の情報源からの情報があったにもかかわらず、強まっていった。

 

10月20付のウィロビーによる情報日報(DIS:Daily Intelligence Summaries)は、中国が、中朝国境を越える目的ですでに40万人の部隊を国境沿いの満州側地区に展開しているという信頼できる報告を明記していた。極東軍司令部参謀第2部(情報部)は、極東軍総司令官マッカーサーが朝鮮戦争終結後の活動について詳述した作戦計画202(Operations Plan 202)を発令したのと同じ日に、この情報日報を提出していた。

 

作戦計画202には、朝鮮半島に展開中の米第8軍の日本への移動や、1950年12月という早い時期に米陸軍の師団をその当時情勢が緊迫していた欧州へと移転させるといった部隊の再配置計画が詳述されていた。作戦計画202は、ウエーク島会談に先立つ5日前に統合参謀本部議長オマー・N・ブラッドレー元帥がマッカーサーに対して要望した要求事項に対応したものであった。

 

極東軍司令部参謀第2部による中国政府の意図に関する分析の最も破滅的な分析ミスは1950年10月28日の情報日報に現れた。

 

この日の情報日報は、「戦術的観点からすると、勝利を得た米軍諸師団が朝鮮半島各地に展開しており、介入のための最良の時機はずっと以前に過ぎてしまったように思われる。もし、朝鮮戦争への介入が計画されていたとしても、北朝鮮軍の残党が軍事力としての能力を最低まで低下させたような時期にまで、その計画の実行が延期されていると信じることは困難である」と述べ、中国政府による朝鮮戦争への介入に関し否定的結論を下していた。

 

 

一度は中国側の視点から中国側の意図を分析するようになったウィロビーであったが、ここで再びウィロビーは、朝鮮半島に展開する国連軍の強力な軍事力の観点から中国側の意図を評価するという、ミラーイメージの誤りを犯している。

 

さらに、ウィロビーによる情報分析は、韓国軍第1師団が3日前に優勢な敵軍と交戦したことや、自身を人民解放軍所属兵士だと語る中国人捕虜の存在、さらに敵軍が戦術能力を格段に向上させていることを無視するものであった。

 

しかしながら、ウィロビーは著書である「マッカーサー、1941〜1951年」(MacArthur:1941-1951)の中で、30万人以上の中国人兵士が満州に所在していたと評価する「10月28日の情報日報」を引用しているが、驚くべきことにそのインフォメーションに対する「介入のための最良の時機はずっと以前に過ぎてしまったように思われる」という評価を省略している。このことは、ウィロビーが自分に都合のいいように歴史を「書き直そう」と試みたことをはっきりと示している。

 

10月25日に韓国軍部隊と中国人で構成される部隊が最初に交戦したから約3週間近くが過ぎた11月13日までの間に、ウィロビーにより作成された情報日報は、中朝国境へ向け前進するマッカーサー率いる国連軍と鴨緑江との間に展開する人民解放軍部隊はわずか「8万人」であると指摘するにすぎなかった。

 

 

情報の失敗の原因となった、使いまわされた報告(circular reporting)

 

ウィロビーが極東で情報活動を事実上独占していたことが、インテリジェンス・コミュニティーにおいて独立した情報分析・評価の欠如につながった。

 

マッカーサー解任に関する米上院軍事外交合同委員会の公聴会は、朝鮮戦争の情報活動が「使いまわされた報告(circular reporting:定訳が無いので意訳した)」の性格を有していたと強調している。使いまわされた報告とは、ある情報が複数の情報源から獲得されたように見えるが、現実には1つの情報源からしか得られていない状態を意味する。

 

つまり、ある情報が複数の情報源から得られたもので、それだけ信頼度が高いような外見を有しながら、実は1つの情報源に由来する情報であるため信頼度も低いということである。

 

H.A.デウェールド(H.A. DeWeerd)は、その著書『戦略的奇襲』(Strategic Surprise)において、「朝鮮に関するほとんどの情報資料が東京からもたらされていたことは、国務長官アチソンの証言からはっきりしている。東京由来の情報は、明らかに国務省およびCIAへと伝達され、その後、ほかの情報資料と共にマッカーサーの司令部に送り返された」と指摘している。

 

 

10月28日の情報日報で中国の参戦意図を無視したにもかかわらず、10月31日にワシントンの陸軍省情報部に提出されたウィロビーの報告は、国連軍が28名の中国人捕虜を捕らえたことを報告している。

 

さらにウィロビーは、中国人捕虜に対する尋問の結果、人民解放軍の第42軍および第40軍の一部を北朝鮮の山岳地域で確認したことを詳述している。

 

10月31日のCIAによる朝鮮半島情勢日報は、事実上ウィロビーの分析とほとんど同じであったが、このことは、CIAが極東軍司令部参謀第2部の情報報告書を基にして分析を行っていた可能性が高いことを示している。

 

 

雲山の悲劇の原因となったマッカーサーによる警告の無視

 

ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部の11月3日の報告書は、最高3万4千人の人民解放軍が鴨緑江を既に越えた可能性があるが、さらに41万5千人からなる人民解放軍部隊が「いつでも大規模反撃」を開始できると警告していた。この警告とピッタリ一致するかのように、極東軍司令部参謀第2部が陸軍省第2部に提出した報告書には、「友軍機が鴨緑江を渡河して北朝鮮へと入る敵軍のかなりひどい車両渋滞を観察した」との記載があった。

 

この警告がマッカーサーをして鴨緑江にかかる橋梁をB-29で爆撃する許可をワシントンに要求させる行動へと駆りたたせたが、この警告でさえも3週間後に作戦開始が予定されていた中朝国境へ向かう攻勢計画をマッカーサーに思いとどまらせる効果はなかった。

 

結局、マッカーサーは11月8日に満州と北朝鮮とを結ぶ橋梁を攻撃する許可をもらうことができたが、その一週間後に人民義勇軍は雲山で米第8騎兵連隊を壊滅させたのであった。

 

 

ウィロビーの報告書で言及されなかった米空軍機とミグ15戦闘機との交戦

 

11月7日の夜、ウィロビーは中朝国境を越える部隊により引き起こされる渋滞がますますひどくなっていることを陸軍省第2部に報告している。その報告書には「とてもひどい渋滞が鴨緑江から南方へ向かって伸びているのが観察された。およそ750両の車輛のうち、その大部分は朔州(筆者註:北朝鮮の平安北道に所在し、鴨緑江のほとりに位置し、対岸は中国遼寧省)から出て行っている」とあった。

 

この間、米空軍作成の報告書にも中国による朝鮮戦争介入を暗示させる不気味な徴候が見られた。

 

米空軍の報告書によれば、中国側の基地から北朝鮮領空内へと越境攻撃をしかけるソ連製のミグ15ジェット戦闘機によって襲撃を受ける米空軍機の数がかなり増加したというのである。北朝鮮の安東に隣接する新義州上空での空中戦に関して、米空軍のあるパイロットはミグ15ジェット戦闘機数機と複数回交戦し、ミグ15ジェット戦闘機が鴨緑江を越えて中国領空へと北方へ退却していくのを見た、と報告している。

 

実は、10月12日付のCIAによる報告書内の分析によれば、CIAは中国が朝鮮戦争に介入することができない理由の主たる理由の1つとして中国の空軍戦力が欠乏している点を指摘していた。しかし、この時期のウィロビーの分析には、国連軍が共産主義国が装備する最も先進的なジェット戦闘機を所有する敵と現在交戦中であるという事実は言及されていなかった。

 

 

米第7歩兵師団の鴨緑江到着により打ち消されたウィロビーの懸念

 

11月の第2週までに、ウィロビーは長津湖周辺に人民解放軍部隊が大規模集結中であり、この中国軍部隊がアーモンド少将率いる米第10軍団に対する大きな脅威となっていることを認めた上で、この新たな敵軍が「主導権を取って攻勢作戦を繰り出す」潜在的可能性を有していることを認識するようになった。

 

11月10日付の報告書の中で、ウィロビーは、国連軍により捕らえられた中国人将校に対する尋問結果を引用していた。この報告書によると、中国人将校は、人民解放軍第38軍が10月20日にいかにして北朝鮮領内に浸透したかを述べると共に、情報保全対策として部隊の名称を「第54部隊」と変更していることを証言していた(ちなみに、情報保全のために部隊名称を変更する手段は反攻作戦が近いことを予測させる徴候である)。

 

11月11日、極東軍司令部参謀第2部は北朝鮮に展開している人民解放軍の数を7万6800人と見積もっていた。11月17日、米第10軍団に対する人民解放軍の脅威に関するウィロビーの懸念は頂点に達した。同日の報告によれば、少なくとも1万人の人民解放軍部隊が米第10軍団の曝露している左翼に所在すると共に、約4個師団の人民解放軍部隊が長津湖周辺で米海兵隊部隊を待ち受けているということであった。

 

しかし、このようなウィロビーの懸念も、この4日後に米第10軍団隷下の第7歩兵師団が鴨緑江にたどり着いたという報告――これにより米第7歩兵師団はマッカーサーとアーモンドから激賞された――などにより引き起こされた興奮によって打ち消されてしまった。

 

 

11月13日付の報告書でなされた、致命的な敵兵力の過小評価

 

ウィロビーの分析は11月の第2週まで北朝鮮領内に展開する人民解放軍部隊の数が増え続けていることを認める内容であり続けたが、ウィロビーはその数をかなり過小評価すると共に、中国が次にとるであろう行動方針に関して分析することを回避し続けた。

 

11月13日付の陸軍省に対する報告書の中で、ウィロビーは北朝鮮領内に所在する人民解放軍を4個軍(第38軍、第39軍、第40軍、第42軍)であるとほぼ正確に指摘していたが、具体的兵力数については中国人兵士捕虜により確認された特定の部隊に関する兵力数のみしか述べていない。

 

ウィロビーによる報告書は、北朝鮮に展開する人民解放軍は「ほんのわずかな部隊から構成された軍」にすぎないと述べていた。「ほんのわずかな」がどの程度の数かは報告書の記載からは不明確であるものの、もしウィロビーが通常3個師団編成である人民解放軍の1個軍を1個師団編成と考えたと仮定するならば、軍を構成する師団の数や1個軍の兵力数は1個師団を基準に計算していたことになる。軍の編成が各国により大きなばらつきがあるため生じる問題でもあるが、ウィロビーの分析ミスは致命的であった。

 

いずれにせよ11月3日の時点で、ウィロビーは彼が分析した朝鮮半島に展開する人民解放軍の数が不正確であることを認めることもなければ、中国政府がこの部隊を使用して達成しようとしている意図・目的に関し特定することもできていなかったのであった。

 

分析方法にこのような問題点が存在したため、ウィロビーはその当時に北朝鮮領内に展開していた人民解放軍の数を実際の数の3分の1程度にしか把握していなかったのである。

 

 

国連軍に壊滅的被害を与えた、人民義勇軍の大反撃

 

11月24日、ウォルトン・ウォーカー中将率いる米第8軍は鴨緑江へ向かって北進を開始した。

 

11月25日の夜、20万人以上の人民義勇軍が反攻作戦を開始し、韓国軍第2軍団を壊滅させ、米第2歩兵師団を潰走させた。アーモンド少将率いる米第10軍団による鴨緑江への攻勢作戦は11月27日の朝に長津湖南岸地域から開始された。11月28日の終わりまでに、人民義勇軍は米第1海兵師団と米第7歩兵師団第31歩兵連隊を分断することに成功した。

 

この敗走に続く退却戦は、米軍の軍事史上における叙事詩的戦闘の幕開けであった。

 

 

人民義勇軍はなぜ接触を断ったのか? 〜米軍の判断を迷わせた中国の行動〜

 

清川河周辺における米第8軍と人民義勇軍部隊との大規模交戦や、11月第1週までに米第10軍団がその作戦地域において3個師団の人民義勇軍を確認していたにもかかわらず、朝鮮半島における中国の意図は不明確なままであった。

 

中国の意図に関する謎は、11月第2週に人民義勇軍が国連軍との接触を断ち、国連軍が進撃する予定であった北朝鮮北部の山岳地域に撤退したことで、さらに混迷を深めた。

 

11月10日付の陸軍省第2部に対するウィロビーの報告書は、米第10軍団が敵軍と小規模な接触を経験している一方で、米第8軍方面の戦線は静かであると述べている。

 

ウィロビーは、次のように述べて、この時点で中国の介入意図が分からなかったことを認めている。「撤退した理由はわからない。しかしながら、未確定ながら、敵は国連軍の攻勢作戦に対する準備のため再編成中であるものと推測される。北朝鮮における人民解放軍の現在の現実的な意図について明確な結論を出すにはあまりにも時期尚早であると、極東軍は信じる」。

 

 

翌11日、人民義勇軍との交戦がなかったことが、中国は国境地域へ撤退したとするウィロビーの分析を説得力のあるものにし続けた。11月12日の米第8軍戦闘日誌は、先陣に立っている米第1軍団の前方地区で敵の抵抗が減少していることを反映した内容となっている。米第10軍団も敵の活動の減少に直面していた。人民義勇軍が作戦活動を不活発にしたことにより、米軍にとって中国側の意図が不明瞭となったのである。

 

11月18日、米第10軍団司令部第2部は、「敵軍の最近の遅滞作戦は明らかに終了した。敵はふたたび北方へと撤退したのである」と報告しているが、ウィロビーとマッカーサーにとって、この報告は鴨緑江を進撃目標とする彼らの作戦計画を支持する内容であった。

 

 

第1章「予想分析の失敗」まとめ

 

ウィロビーは1950年7月という早い時期に中国が満州で軍事力(軍事関係インフラおよび部隊)を増強中であることを正確に確認していた。この点は、評価に値する。

 

しかし、ウィロビーは人民義勇軍が大挙して北朝鮮に侵入したという証拠を故意に無視すると共に、中国共産党の政治指導者が公的声明の形で発した「朝鮮戦争へ介入する」という警告を無視した。

 

極東軍司令部参謀第2部は、ウィロビーの分析に具体的な説明を加えることにより、中国側にとって介入するのに最も有利な時機が過ぎ去ってしまったので、中国は朝鮮戦争に参戦する能力を有しているが決定的規模で朝鮮戦争に介入するようなことはしないであろうと、CIA、統合参謀本部およびトルーマン政権関係者を信じ込ませてしまった。

 

ウィロビーが朝鮮半島に関する情報報告を独占し、ウィロビー系統とは異なる独立的な情報分析を抑圧してしまったことは、ワシントンにいる米国の政策意思決定者がウィロビーの視点以外の立場からなされた情報分析・評価を入手できない事態を引き起こしてしまった。そして、この現象は第2次世界大戦におけるウィロビーの経験やマッカーサーが極東軍司令部内に作り上げた組織環境に由来するものであった。

 

 

今回で、本連載の最初に指摘した、1950年10月に情報の失敗が発生した3つの原因(予測分析の問題、制度的機能障不全、人的・政治的要因)のうち、予測分析の問題を終了する。次回から制度的問題の考察に筆を進める予定である。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(長南政義)

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