神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(44)
人事1班では年に2回、夏冬の昇任・補職時期には「詰めきり作業」といい、部内電話のかからない環境にこもり、雑音を遮断し作業に専念した。予算があるときは安ホテルや旅館の部屋に詰めていたが、火箱がいた最後の頃は「そんな予算はない」と言われたため、関山演習場(新潟)の廠舎にこもって作業した。
本来ならば「神のみぞなせる業」である補任行為を凡人の自分が行なわなくてはならない。だから限りなく「神の目」に近づけようと心がけた。心を真っ白にして私情を挟まない。対象者の中には親しい同期も尊敬する先輩もいる、馬の合わなかった同僚もいる。しかしそういった事情は一切排除し、個人の感情に流されることなく、真に陸自の1佐にふさわしい人間を選んでいった。
また、火箱は2佐から1佐への昇任のほか、特別昇給も担当していた。特昇を受けた隊員は給与が1号俸上がるので、これもまた大事な任務である。ところが当時の人事局長が自衛官の5回目の特昇に難色を示した。制度として定められていることであり、予算もついているのに、「自衛官は同年次のキャリア事務官と比較して給与が高い。したがって5回目の特昇は許さん」と言うのだ。
陸幕長に報告すると「自衛官の処遇はきちんとやってやらなければいけないことだ。特昇を放棄するなどもってのほか、お前に任せるから戦ってこい」と背中を押された。そこで火箱は内局部員と結託し、局長と同年次の将官の俸給表を作成、比較し「指定職に就くのも自衛官より内局キャリアの人の方が3年早い」ということが一目瞭然の給与比較の資料を用意し、局長に「自衛官の給与は決して高すぎることはない。5回目の特昇は妥当である」と説明、無事要求を通した。
補任課の班長補佐として不夜城の六本木で奔走した1年は、その後の火箱の自衛官としてのあり方に大きな影響を与えた。実際、陸幕長になってからも補任課の隊員には「人事は組織維持向上のいちばんの基本。徹底的に悩め。考えて考えて、考え抜け」と伝えた。
補任課で勤務した後の火箱は、1995(平成7)年3月から陸上幕僚監部防衛部防衛課業務計画班長となることがおおよそ決まっていた。ただ、次の補職待ちで、着任まで半年ほど猶予があった。こういう場合、多くは幹部学校で教官として学生教育に当たるのが常で、火箱も同じ流れになるはずだったのだが、当時の幹部学校がたまたま比較的長いスパンで教官をできる人材を求めており、半年限定の火箱は幹部学校から断られた。
そこで火箱を預かることになったのが、小平の業務学校である。ここで野見山校長(当時)直轄の研究員として、与えられた命題の「勤務評定の研究」に取り組むこととなった。業務学校が1佐を預かるなど前例がなく、周囲からも「なんで業務学校? 事故でも起こしたか?」と不思議がられ、問い合わせまであったほど珍しい人事だった。
ただそんな声とはうらはらに、火箱は業務学校で研究に没頭できる環境をラッキーだと感じていた。研究テーマである勤務評定は補任課でさんざん付き合ってきたものであり、だからこそ改良、改善の余地があると感じていた。それについて半年間じっくり取り組めるなど、これほどありがたいことはない。業計班長になるための準備期間ではなく、本気で取り組むべき研究テーマがあることは、武骨なまでに真面目な一面のある火箱の性に合っていた。しかもその内容が補任課の仕事の延長ともいえる内容とあって、おのずとやる気がわいた。
(つづく)




