【第6回】恩賞の与え方と受け方

終戦70周年記念出版 『大東亜戦争と本土決戦の真実―日本陸軍はなぜ水際撃滅(すいさいげきめつ)に帰結したのか―』(260ページ 定価1600円+税 並木書房)

【第6回】恩賞の与え方と受け方

ごあいさつ

 

こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 

 『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一には、『太平記』
全四十巻が書かれた経緯や、それぞれの巻の作者
について記されています。

 

それによれば、『太平記』という書物が、
後醍醐天皇のご発意により、長い年月をかけ、
多くの人々の手によって記されたものであること
が分かります。その内容を今回から、数回に
分けて紹介いたします。

 

(引用開始)

 

 この書(注:『太平記』)は、今を去る建武
御親政の頃、後醍醐天皇が二条の馬場殿にて
お遊びになられた折、諸卿・武臣が堂の上や下
にいたが、新田義貞を召して次のような勅を下された。

 

「文治から今までの数百余年、鎌倉幕府が権威
を重くして、天下を支配した。朝廷の廃頽は
日ごとに増していった。それゆえ代々の天皇も、
幕府を滅ぼし、帝徳を四海に照らそうと、
あれこれとお考えになられたが、事ならずして、
(後鳥羽院隠岐配流のように)かえって皇居を
遠島に遷されてしまい、または権勢も微々たる
ものとなり、沈黙なされていたのである。
しかし、朕(ちん:この場合は後醍醐天皇)の
代になって、逆臣はたちまちのうちに滅亡し、
王法(=仏教の立場から、国王の法令・政治を
称する語)も昔のように戻った。この上は、
後代のため、また現在の貴重な教訓ともなるで
あろうから、義貞が鎌倉を攻めた様子や、
(足利)尊氏が六波羅を滅ぼしたときのありさま
を、記しておこうではないか。」

 

 このような仰せに対して、義貞は、
「天皇の御徳があまねく天の下を照らすこと
がないようでは、我ら臣下はどうして尺寸の
(=わずかな)謀を以て、大敵の勇を砕くこと
ができましょうか」とお答えしたのであった。

 

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

 

 それでは、本題に入りましょう。

 

 

【第6回】恩賞の与え方と受け方

 

(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第三 赤坂城軍の事」より)

 

 

楠木が赤坂に城を築いた経緯

 

 元弘元(1331)年8月、六波羅探題は
七万余騎の軍勢で、後醍醐天皇が遷幸された
笠置山を囲んでこれを攻めた。このことを
知った楠木正成は、笠置山の官軍と力を合わせ
ようとして、すぐに赤坂で挙兵した。

 

 これは、鎌倉の武士がたいした日数も経ず
して京都に到着するのは困難であろう。
その間には、和泉・河内・摂津の三ヶ国
(現在の大坂府と兵庫県)を平定して、軍勢が
強大になっていれば、笠置の後詰めとして、
これを包囲した六波羅軍を背後から攻めよう、
と考えてのことであった。

 

 ところが、鎌倉幕府の執権・北条高時が、
日頃の愚かさとは違って、速やかに大軍勢を
上京させたことから、楠木の考えどおりには
ならなかった。そこで、たいした準備時間も
無いまま、急いで赤坂に城を築いたのであった。

 

 

赤坂城における楠木の防御戦法

 

 赤坂へ向かった鎌倉幕府の軍勢は、さほど
堀も深くなく、わずかに一重の塀と2~30の
櫓が造られているだけの、二町(約220
メートル)四方ほどに過ぎない小城を見て、
「ああ、一日でも楠木に城を持ち堪えてもらい
たいものだ。敵の首と武器を分捕り、手柄を
立てて、恩賞に預かるぞ」と語っていたという。
そこで、幕府軍の4万余騎は、一斉に攻めかかり、
堀に飛び込んで櫓の下まで進むと、我先に
討ち入ろうと争った。

 

 楠木正成は、強弓(=弓の技量に優れた射手)
2百余人を選りすぐって城内に配置し、また弟の
楠木七郎正季と、甥の和田五郎正遠に3百余騎
を与えて追撃隊とし、城内に待機させておいた。
これらの兵たちには皆、慣れ親しんだ(適切な)
武具を持たせるよう心がけた。

 

 寄手(よせて=攻城軍)は、一気に目の前の城
を攻め落そうとして、四方から切り立った城壁に
取りついたところ、楠木軍の強弓が、櫓や狭間
から続けざまに、狙い違わず矢を射込んできたため、
瞬く間に負傷者や死者が続出し、千人以上にも
なった。射立てられて大損害をこうむった寄手は
退き、八方に逃げ散じた。

 

 正成が城内から敵を見ると、備えを堅くして
いる陣は一つもない。ほとんどの敵兵は逃げ散り
つつあった。わずかに「見苦しいぞ、引き返せ!」
と叫ぶ声に応じて、心意気ある者が引き返したが、
それでも、一所にて百騎さえも返すことがなかった。
そこで、正季と和田を大将とする追撃隊・三百余騎
が二手になって城から出撃し、敗走する敵を
追いかけること一里(約4キロメートル)、
討たれた者はその数を知れずとなった。

 

 

楠木、弓兵と追撃隊の武勇を称賛

 

 戦が終わってから正成が云うには、

 

 「今日の合戦は、ひとえに弓兵のおかげである。
彼らの功績が無ければ、どうして敵を退けられた
であろうか。また、城中から討って出た兵が、
敵を滅ぼしたのも戦功がなかったと言うのではない。
義によって命を捨て、大勢の中に無勢で懸け入った
のは、神妙である。その上、敵が反撃してきたの
を撃退したのは、もちろん高名(手柄)である」

 

 とのことであった。その時、傍らで追撃隊に
いた兵たちが、

 

 「兎にも角にも、兵は弓を射るべきであるなあ。
なにせ、城の内にいながら、遠くまで敵を退けて、
一番の高名となったのだから。我らは城から出て
骨を折り、太刀・長刀で敵を打ち倒し、突き倒して、
自ら数箇所を負傷したにもかかわらず、高名は
弓兵の次である・・・」

 

 と語り合っていた。

 

 

高名とは時と場合によるもの

 

 これを聞いた正成は、彼らに諭すように語った。

 

 「つたないことを言うものではない。時により、
事によって、高名には優劣があってしかるべき
なのだ。この度は、あまりにも敵が弱かったので、
城の塀のきわまでも来なかったのであるから、
弓の高名となったのである。敵が塀を超えて、
さらに近くまで来るような時は、太刀・長刀の勝負
である。さらに近くして、取っ組み合うような時は、
刀となる。このようなわけで、大昔から武具には
数々の種類があるのだ。であるから、この先もお前達
に高名がないなどということがありえるだろうか・・・。」

 

 このように言われて、初めに愚痴を言った者は、
自らを恥ずかしく思ったのであった。

 

 

赤坂城に残った四人の脱出

 

 楠木勢が赤坂城を落ちるにあたり、正成は、
勝多左衛門直幸、和田新五宗景、田原次郎正忠、
生地兵衛為祐の四人を城内に残した。勝多・田原は、
正成の家の子(血縁の家臣)、他の二人は郎従である。
これらは皆、勇士の誉れがあった。

 

 城に火をかけたならば、寄手は四方から鬨(とき)の声
を挙げて近づいてきた。四人の兵は、二人は西へ出て、
二人は北へ出た。何れも戦死した城兵の首を両手に
取り提げ、大声で「敵は未だに本丸にいるぞ。急げ、
急げ」と叫んだ。

 

 これを聞いた数万の敵軍は、「こしゃくな兵どもだ」
と云いながら、急いで城の奥へと駆け入った。
こうして、西と北から数万騎の敵が城内に入ったが、
夜のことであり、急なことでもあって、味方の目印
さえも定めていなかった。そのため、数時間にわたり
同士討ちとなって、兵二百余人が死んだ。

 

 

正しい恩賞の受け方とは

 

 四人は無事に正成が居る金剛山の奥に帰り、
然々(しかじか)と語った。虎口の死を遁れる勇才も、
また多くの敵勢の中に四人だけ留まったのも、
正しい道のために死する覚悟があればこそであった。
正成は、この四人の兵を「義があって忠もある。
また勇もある」と褒めて、各々に太刀(たち)を
与えようとした。

 

 四人が云うには、「弓矢取る身(武士)が
君主の為に命を捨てることは、常にやるべきこと
です。どうして我らに限ったことでありましょう。
殿の土地で喰わせていただき、妻子に糧を与える
こと数年、身命ともに殿の物であります。
引出物(君主からの贈物)は、以前にも数年前に
いただいております。それも、まだ最近のこと
ですので・・・」と云って、受け取ろうとしなかった。

 

 正成は三度にわたってこれを与えようとした。
そしてついには各々が受け取ったのであった。

 

 こうした場合には、二度目に与えようとされた
時点で受けるべきである。一度目は、その他の兵で
このことを知り、自分にも恩賞を得るだけの十分な
働きがあったと自負しているのに、正成がこの兵
に引出物をしようと考えていなかったならば、
その兵は恨みを抱くことになる。(一度は辞退しながら、
二度目に受けるというのは)このように思わせない
ためであり、最もよろしい。

 

 三度目は無礼である。太刀を与えるということ
は、正成のためには死を快くせよということである。
また、君主の命令を辞退することであり、礼に背く
ことにもなるのだ。

 

(「恩賞の与え方と受け方」終り)

 

 

 

(以下次号)

 

 

(いえむら・かずゆき)

 

 

(2014年6月27日配信)

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