【最終回】 楠木正成の首を故郷に送る

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【最終回】 楠木正成の首を故郷に送る

ごあいさつ

 

 こんにちは!日本兵法研究会会長の家村です。

 

 昨年の5月23日から続けてまいりました『楠木正成の統率力』も、いよいよ今回が最終回です。

 

 第1回・第2回掲載文の冒頭でご説明したことですが、 「統率」とは、指揮官や指導者などのリーダーが多くの人々の心を統一し、目標とする所まで率(ひき)いて、組織として目的を達成することであり、それゆえ「統率者」は、指揮官として部下を使い、教育者として部下を教え導き、親心をもって部下を養い育てなければなりません。

 

 そして「統率力」とは、いかに厳しい環境下でも「平常心」をもって組織を正しく統率できる能力です。

 

 本記事では、『太平記秘伝理尽鈔』の中から「楠木正成が自分の郎従たちをどのように統率し、当時における最強の軍勢を育てたのか」というテーマで36回にわたり紹介してまいりました。これらを読まれた皆様は、楠木正成こそ我国の歴史上「最高の統率力」を発揮した人物であることを十分ご理解いただけたものと思います。

 

 戦後体制といわれるものが瓦解しつつあり、多くの困難に直面している現在の日本では、あらゆる組織で優れた統率力を有する真のリーダーを必要としています。今こそ、その手本を大楠公・楠木正成に学ぶべきでしょう。

 

 それでは、本題に入りましょう。

 

 

【最終回】 楠木正成の首を故郷に送る

 

 

 『太平記』に描かれた「美談」

 

 (「太平記巻第十六 正成が首故郷へ送る事」より抜粋)

 

 湊川で討たれた楠木判官(ほうがん=正成の官位)の首が、六条河原に架けられていたが、その後、足利尊氏卿がこれを持って来させて云った。

 

 「彼とは朝廷においても、個人的な関係でも、昔から親しく付き合っていた仲なので、哀れに思えてならない。遺された妻や子らも、死に顔であっても、今一度見たく思っていることであろう。」

 

 こうして遺族のもとに正成の首を送られたことは、ありがたい気遣いであった。

 

 楠木の妻と子・正行(まさつら)は、このたび判官正成が兵庫に向けて出陣した日がこの世の別れであると以前から覚悟していた。しかし、送られてきた首級を見ると、その顔は目を閉じて変色し、変わり果てていた。これを見た妻と子は、悲しみに胸を締めつけられ、嘆きに流れる涙は止まらなかった。

 

 11歳になる正行は、生前とは余りにもかけ離れた父の姿に母が嘆き悲しみを抑えることができない様子を見て、流れる涙を袖でおさえて持仏堂に向かって行った。この様子を不審に思った母は、御堂の戸を開いて中を見ると、父・正成が形見として授けた菊水の刀を抜いて右手に持ち、袴を押し下げて、今まさに自害をしようとしていた。母は大急ぎで走りよると、正行の腕に取りすがり涙を流しながら云った。

 

 「お前はまだ幼いと言えども、父・正成の子であれば、この程度で何を血迷っているのだ。冷静になってよくよく考えても見よ。亡き判官正成が兵庫に向かう時、お前を桜井の宿から帰らせて残したのは、自分の死を弔ってもらうためでもなければ、お前に腹を切らせるためでもない。たとえ父の運が尽きて、戦場で命を失うことになっても、帝(後醍醐天皇)がどこかで健在であられることを知ったなら、生き残っている一族や若武者たちを召抱え、今一度、戦(いくさ)をして怨敵を滅亡させ、再び帝を皇位にと、こう言い残したのではないか。その遺言をよく理解し、この母にも語ってくれたお前が、なぜそれを忘れてしまったのか。こんなことでは、父の遺志を継いぐことも、帝のお役に立つこともできませんよ。」

 

 母はこのように諌(いさ)めて、抜いた刀を奪い取った。正行は腹を切ることもできず、本尊のある高座の上に泣き崩れた。母と子は一緒になってしばらく泣き続けた。

 

 このことがあってから、正行は父の遺言と母の教えを肝に銘じて、尊氏を滅ぼすことを期しながら日々を送ることになった。

 

 

正成の首を河内へ送ったのは、直義の策略

 

(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第十六 正成が首故郷へ送る事」より)

 

 足利直義が、兄・尊氏に言った。

 

 「正成の首を故郷へ送られれば、諸人はこれを見聞きして兄者のことを情け深いと思うことでしょう。そうなれば、相手の謀も成り立たなくなることでしょう。正成がいつぞや直義に語っていたのは、

 

 『敵を数多く討ち取ったのに、敵が強くして破れず、弔いの戦を、と心に懸けているのであれば、名のある首などを敵国に送り、親近者などが弔うために首を望んでいる所に遣わされるならば、一つは情けがある。または、その空しい顔を見たならば、いかなる勇士も気が弱くなって、戦をしない。また、恐れる気持ちを抱くものである。あるいは、その志を感じて味方になろうとするものでございますぞ。さらには、打って出ようと思っていても、この悲しみに引きずられて十日や二十日の内には打って出ないものです・・・』

 

ということでした。実にそのとおりだと思われます。せっかく取った正成の首、これを故郷に送られるならば、後室は女性であり、多聞丸(正行)は幼いので、どちらも嘆き入ることでしょう。」

 

とのことであった。

 

 尊氏は「そのとおりである」と云って、世瀬川左衛門入道祐憐(ゆうれん)を使いとして、6月1日に楠木の館へ向わせた。和田正遠(正成の甥)と楠木正季(正成の弟)は、千早にいた。

 

 

尊氏、楠木の戦意を削ぎ、融和を図ろうとする

 

 尊氏は祐憐を遣わしてこのように伝えさせた。

 

 「この度楠木殿を討ち取ったことは、尊氏の武人としての名誉とは申しながら、全く私的には宿意(=深くて強い思い)があってのことではない。また、朝廷に向って弓を引いたことは、これまた本意ではござらぬ。

 

 朝廷が危うくなるような事があれば、正成よりも前に戦場において討ち死にをいたそうとさえ思っていたほどに、忠節心があって私的な思いは無かったにもかかわらず、新田(義貞)が私的な宿意をもって私の無実の禍(とが)を申し立てて帝のご判断を誤らせ、私が朝敵の汚名を着せられることになってしまった。

 

 楠木殿は、かつて朝廷に参内していた頃、私の宿所において久しく互いに親しみあった仲であったこと、人たる者がどうして忘れることがあろうか。それだけではなく、弓矢の道・謀の仕方や考え方では、正成は、あたかも(子房に兵書『三略』を授けた)黄石公のような存在であり、私も子房(=張良)ではないがその道を尋ねたものであった。

 

 我が国において正成に匹敵する者はいない。古にもこれほどの智謀と勇猛さを備えた者は聞いたことがない。最後の御合戦でもまた、毎回こちらの大勢を揺さぶり、勇を振るっていた威勢を例えようにもその類いがない。彼の軍勢に向って行って戦死した者は、続柱(つづき)七郎・細川阿波守・山名右京進を始めとして、名ある勇士27人、他家では戸次(へつぎの)三郎・原田五郎・土居日向守を始めとして37人、郎従については1700余人であった。負傷した者は数えきれぬほどであった。

 

 このような良将が命を亡くしたのは、大君の御政(まつりごと)が天に叶わなかったからであろうか。尊氏がこれを喜ぶようなことは絶対にない。あるいはかつての友好を思い、あるいは私が無罪であることを正成によって証明したいと願うからである。悲しみの涙が袖に余り、嘆きの切なるがゆえに、その妻子の哀れを思いやる気持ちのしるしとして、その首級を送ることにしたのである。

 

 多聞丸はまだ幼い。敵味方に分かれているのでなければ、尊氏がどうして一方の助けとならないことがあろうか。そもそも敵と云い、味方と云われるのは、互いに義を重んじるからである。両家に私的な宿意など何があるというのか。今から後、尊氏に対し、そちらの御家からの仇(あだ)が無いというならば、尊氏は河内・和泉に兵を向かわせることは絶対にない。

 

 かつての友好を忘れさえしなければ、このような和睦のうちに孝行して親を養っていただけるのです。」

 

 

尊氏の策略を見破りつつも、平穏に返答

 

 楠木の家子・老中たちが集まって、こうした尊氏の情けを深く感じていたところ、ある老中がこれを聞いて云った。

 

 「敵の志を奪おうと考えての策略である。これは正成殿が仰られていたことである。」

 

 そして、生地(おちの)左兵衛と安間善七に命じて正成の首を受け取らせ、請文(うけぶみ)を書いて返した。

 

 生地と安間は、世瀬川に申した。

 

 「正成の首を送って下された御情けのほど、まことに以てありがたく思います。将軍様のお考えのように楠木は、朝廷に仕えて私が無いからには、将軍様に対しまして何の恨み事がございましょうか。世の成行き、定まらない事など、今に始まったことではございませんが、将軍が朝敵の名を得られたことによって、宣旨のままに弓を引き、矢を発したまでのことでございます。

 

 これから後に(後醍醐天皇と尊氏の)君臣が一つになられることが必ずございましょうから、その後には正行が常に参って、この度の御芳志を感謝することになりましょう。」

 

 手渡した請文の内容もこれと同じであった。

 

 

乱世の武家の「あるべき姿」

 

 和田を始めとする宗徒の者どもが、家子・郎従どもを集めて申した。

 

 「判官殿(正成のこと)が常に仰られていたことであるぞ。敵の志を奪おうとして、首を送ることについて、殿は我々に細々(こまごま)と語り、

 

 『今に見よ、尊氏は必ずや河内へ発向することになろう。各人は用心を厳しくしたまえ。油断をなされるな』

 

 と申されていたのだぞ。」

 

 これを聞いた家子・郎従たちが申した。

 

 「どうか、判官殿の御面影を今一度拝ませていただきたい・・・」

 

 皆の動揺を危惧した老中は、あえて見せなかったのであるが、楠木正季と和田正遠が云った。

 

 「それはかえって差支えがあるように思う。見せまいとすれば、結局は恨みを抱かせることになろう。今は亡き判官が言われたのは、尋常の郎従のことである。ここにいる皆は、よしみの深い上、常に判官の下知に随って、事の意(こころ)を弁えている者たちである。」

 

 そこで、老中は見せたのであった。

 

 首を前にして各々は、あたかもそこに正成殿が生きておられるかのように元気よく振る舞いながらも、皆が涙にむせんでいた。それでも、誰一人として落胆したようなそぶりを見せることなく、

 

「帯刀(たてはき)殿(=正行のこと)がこうしておられるからには、判官殿がおられるのと同じだ。ながらえたところで甲斐なき命であれば、ああ尊氏よ、どうか攻め寄せて来い。快く一戦を交えようぞ」

 

と勇みあった。乱世の最中における武家なれば、この弔いこそがあるべき姿なのである。最も賢明な人々ではないか。

 

 母と正行が嘆いた様子は、『太平記』(上述)のとおりである。

 

 

正成の謀を正成の家臣に用いた直義は愚か

 

 『三略』上略という兵書に「将の謀泄るれば、則ち軍に勢なし」(=謀(はかりごと)が漏れてしまえば、軍(いくさ)に利がない)というのがこれである。

 

 正成が生前に語っていた謀を用いて、正成の老中たちに策をなそうとして、どうして成功することがあろうか。直義の智は拙(つたな)くして、人まねをする猿のようである。和田と郎従たちは皆、

 

「かたはらいたき(笑止千万の)直義の謀の拙さよ」

 

などと口々に侮蔑し、嘲笑したのであった。しかし、これを知らない諸人は尊氏を「情け深い」とさえ見るようになったのであり、足利氏にとってはそれなりの効果があったというべきであろう。

 

 

(『楠木正成の統率力』終り)

 

 

(いえむら・かずゆき)

 

(平成27年(皇紀2675年 西暦2015年)1月30日配信)

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