【第9回】叱るよりほめよ
こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
前回に引き続き、『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一から『太平記』全四十巻が書かれた経緯と、それぞれの巻の作者について紹介いたします。前回は楠木正成について記した十一・十六巻や、足利尊氏の陰謀、直義の悪逆などを記した十三・十四巻などについてでした。今回は、尊氏・直義一代の悪逆などが記された二十二巻が消されたことについてです。
(引用開始)
数年を経て、南朝の正平の頃、備後三郎高徳入道(児島高徳)が吉野に居たときに、御村上天皇の勅により、京中の合戦と足利尊氏の敗北について記した。これが十五の巻である。その内、多々良浜の合戦については、寿栄(尊氏の右筆)がこれを記した。
また、十二の巻は、足利直義(ただよし、尊氏の弟)が玄恵に命じてこれを記した。この時、直義は玄恵に語ったことには、「この書の十巻以後は、全て焼却すべきではないか」とのことであった。
それに対して、玄恵は、「それはなりませぬ。後代の人もまた、焼失したことの咎(とが)を記すことになりましょう。なによりも、公の政道が正しくあること願うのみです」と言ったのであった。これにより、直義は書を焼かなかった。
このようにして、元弘の政治が正しくなかったことを記した。十二・十七・十八・二十三の巻などがこれである。この時、高徳入道義清も、越前の合戦、脇屋義助(新田義貞の弟)の敗北、そして尊氏・直義一代の悪逆を記した。これが二十二の巻である。
そうであるのを後に武州入道(細川頼之)が好ましくないことだと思って、天下の内を尋ね求めてこれを集め、全て焼却した。(足利幕府全盛の)当時としては、「二十二の巻とは、あきらかに読ませるべきではない書である」との判断であった。
現代に存在するところの二十二の巻は、二十三の巻から集め出して、二十二と号したものである。
(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)
それでは、本題に入りましょう。
【第9回】叱るよりほめよ
楠木、渡辺橋の戦いで六波羅軍を撃滅
1332(元弘2)年の暮までに千早城を完成させ、下赤坂城も奪回した楠木正成は、翌年1月中旬、約2千の兵を率いて堺付近に進出し、淀川の障害を利用して、六波羅軍5千を撃破した。これが渡辺橋の戦いである。
楠木の軍勢を討伐するため京都から堺へやってきた六波羅軍に対し、楠木は3百の小勢により敵を誘きだして渡河させてから、橋を破壊して退路を遮断し、楠木勢主力で三方向から反撃した。六波羅軍はたちまち混乱に陥り、渡辺橋方向へと退いたが、楠木勢はこれを猛追撃して淀川南岸に圧迫し、撃滅した。
六波羅探題の南北の長官、左近将監・北条時益と越後守・北条仲時の二人は、この報告を聞いて、事のあまりの重大さから、再び楠木勢を攻める必要があると考えた。そこで、京都警備のために関東から上洛していた、宇都宮公綱(きんつな)を呼び寄せて評定(作戦会議)を開いた。
まず、北条仲時が述べた。
「合戦というものは、古来から時の運が雌雄を決することである。しかしながら、この度の渡辺橋の戦で大敗したのは、何よりも指揮官の作戦がまずかったことによる。また、将校や兵士らが臆病だったからである。このため、天下の笑いものになったのだ。・・・」
仲時の士卒への批判は正しいか
(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第六 楠天王寺に出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より)
仲時が云うには、この度の敗因が「指揮官の作戦がまずかったことによる」とのことであるが、これは理に適(かな)っている。しかし、さらに「将校や兵士らが臆病だったからである」としたのは正しくない。
楠木勢が皆、勇敢であるということはなく、六波羅軍が皆、臆病なのでもない。何ゆえにこのようなことを云うのであろうか。これを聞いた京都の軍勢は皆、不本意に思い、やる気をなくしたことであろう。
郎従の過失への正成のあり方
楠木正成が郎従を諌(いさ)めるときは、かりにもその悪しきことを云わず、無礼な悪口を吐かなかった。その郎従の過去の良かったことや、誉(ほま)れだけを指折り語ってから、最後に一言こうつけ加えたのである。
「これゆえに、正成はそなたへ頼んだのである。今回のような過失は、それまでの良き事があればこそ、恥とされよ。気持ちを引き締めて、今後は無いようにせよ。」
このように云って、十日、二十日、あるいは百日の間、対面しないでいれば、その者も情けの深さを思い、我が身にとって何とも恥ずかしく、また誠にかたじけないとだけ思うことから、再び過ちを犯す者は少なく、正成を恨む者もいない。
人の上に立つ者は、皆かりそめにも、自分の腹が立ったからといって、人に恥をかかせること、無礼な悪口は言わないものである。心得ておくべし。
八尾の別当に敗れた志貴右衛門
また、正成は八尾の別当顕幸と数年にわたり戦っていた。(注:第7回掲載文「敵意を解いて服属させる」参照)
ある時、楠木の家の子である志貴右衛門助と云う者が、百余騎にて一城に籠った。別当顕幸は直ちに50余騎にて、その城へ向かった。志貴は城を出て戦ったが、打ち負けて城へ入らず、郎従18騎が討たれながらも、すぐに楠木の館に来た。
周りの人々は、これを指差し、嘲笑して云った。
「別当顕幸と当家は、所領の争いにより、恨み合うこと数年にわたる。そうであれば、その勝負は、折によって変わるものではあれども、一城を取られるまでの事は聞いたことが無い。これは寺の坊主のいくさだて(=戦の仕方)よりも拙いということだ。これほどまで戦に負けたのは、法師にも負けるただの尼僧ではないか。正成殿に対面して、何と言い訳したのだろうか。恥をさらすよりも、いっそ死んでしまえ・・・」
志貴を叱らなかった楠木
正成は右衛門に対面して、戦の様子を詳しく聞いてから、これまでの右衛門の数々の戦場での忠義、勇敢な行動や、さらに賢明に判断して戦った事なども語りだしてから、
「正成が常に申してきたのは、こうしたことであるぞ。そなたは、それほど愚かないくさだてをするような殿ではござらぬ。」
と云い、そして
「御身が無事で死をまぬがれたことこそ、うれしく思うぞ。死んでしまった兵は、なげいたとても帰ることは無い。そうであっても正成、この故に多くの士が討たれてしまったことは、実に不憫(ふびん)に思うぞ」と涙ぐんで、
「この度の事、そなたの謀、いくさだての間違いは、ただ正成の天命が間違ったからでこそあろう。そなたの間違いではない・・・」
こう云って、再三これを誉め、「馬・物具も、おそらく戦場に捨ててしまったことであろうから、これを召されて、後日の合戦をなされよ」と、馬・物具を与えた。また、討たれた兵たちの妻子を呼び寄せて、皆に米銭・金銀の類をその身分に応じて与えた。人は皆、その情け深さに感じ入ったのであった。
その後、志貴右衛門助はずっと、このことを恥ずかしく思っていたが、謀をめぐらし、終に別当に取られた城を、半年の内に夜討ちにより取りかえし、恥をすすいだのであった。
これとは比べるべくもないが、舌にまかせて理もなき悪態をつき、諸卒に疎(うと)まれていた仲時の心の中こそ、愚かなものである。
(「叱るよりほめよ」終り)
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