【第27回】 飯盛城攻略作戦 その3

終戦70周年記念出版 『大東亜戦争と本土決戦の真実―日本陸軍はなぜ水際撃滅(すいさいげきめつ)に帰結したのか―』(260ページ 定価1600円+税 並木書房)


【第27回】 飯盛城攻略作戦 その3

ごあいさつ

 

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 

読者のH.Y様からのお便りをご紹介させていただきます。

 

 

20年ほど前にウクライナである老人から聞きました。彼の祖父は
日露戦争の従軍者で松山に捕虜でいたとのことです。

 

祖父は思い出を語るごとに「マツヤマ」と言っては日本人の軍民
あげての捕虜への立派な応対を語っていたそうです。

 

ウクライナもロシア帝国兵として外国へ遠征し、長い歴史の中では
ロシア・西欧・トルコ・中央アジア・モンゴルから攻められ攻め返す
という戦乱の歴史の中、日本こそが信用できる唯一の外国人であると。
まさに楠公精神を具現した武の情けが遠い欧州でも生きている証拠を
見たものです。

 

(私が直に特技とするロシア語で聞き、しかも外国人は大祖国戦争の
ドイツ兵以来だというような地方の当局の宣伝工作もしようの無い
ホテルの無いような農村での民泊での話でした。)

 

 

 H.Y様、素晴らしいお話をありがとうございました。

 

 本メルマガを通じて皆様もご承知のとおり、楠木正成とは
常に、強く、正しく、賢く、そして優しく、己を捨てて公に尽くし、
その生涯をもって「武の道」を見事に実践した人物でした。
今を生きる私たちが、「手本」とすべき人なのですが、残念
ながら学校の歴史教科書では、自由社などの数社を除き、
ほとんど登場しません。なぜか、賊である足利尊氏ばかりが
出てきます。・・・ 何か、間違っていますね。

 

 さて今回は、前回に続く「飯盛城攻略作戦」の三回目です。
それでは、本題に入りましょう。

 

 

【第27回】 飯盛城攻略作戦 その3

 

(「太平記秘伝理尽鈔巻第第十二 安鎮国家の法事付
諸大将恩賞の事」より)

 

 

楠木軍、夜襲に出陣

 

 正成は、前日千早に到着して、翌日の午後8時頃には
命令を下達した。

 

 「今夜、敵陣に攻め寄せる。午後11時過ぎに、ここ千早城
を出発する。舎弟の正氏が先陣となれ。正氏はこの正成が
旗で指揮するとおりに行動せよ。和田和泉守(楠木一族)は
後陣となって続け」。

 

 正成自身は600余騎にて中の陣となった。正氏が800余
騎、和田が800余騎、先陣と後陣とを合せて2300余騎にも
満たなかった。志貴・恩地らの郎従が来て、

 

 「どうしてこのような小勢で向われるのですか」 と云うが、
楠木は

 

 「おぬし達・矢尾殿・私の手の者を集めれば、6千余騎は
あるだろうから、あとのことは心配する必要がないようだ」

 

とだけ言って出発した。

 

 

各陣に案内者を配置して暗夜を克服

 

 4月29日の夜は、一寸先も見えないほどの真っ暗闇で
あったことから、正成は

 

 「これより平群(へぐり)へは山野があり、野原がある。先陣
に遅れてはまずいので、先陣のことはいうまでもなく、後陣の
和田殿へは、案内者を10人同行させているので、2人は先
へ行け。3人は道の間違えそうな箇所があれば、そこに立ち
留まって兵を通せ。残りの5人は前後を駆け回って道を知らせよ」

 

と命じた。正氏の隊にもこのように処置した。正成の部隊に
ついても当然のことである。

 

 

さらに道しるべを指示して万全を期す

 

 そのようにしてなお、楠木は前後の諸隊に伝令を遣わして、

 

 「もしも後ろに離れて行進経路がわからなくなった兵があれば、
馬の足跡を道しるべにせよ。もしも左右に分かれる道の両方に
足跡があれば、それらをよく見よ。古い足跡は土が固まっている。
今通ったばかりのものは、上の土が軟らかい状態である。これ
が一つの目安である。

 

 今夜は宵から曇りになるので、雨が降ることになれば、道の
傍らの草の葉をなめよ。馬の蹴上げ(=馬が蹴上げた泥やほこり)
をかぶっているだろう。また、両方の道の草の葉に蹴上げがあ
れば、通ってから時間がたっている蹴上げは、かわいて葉にこび
りついているだろう。今さっきの蹴上げは水滴に浮いているだろ
う。これを目安にせよ。

 

 また、草の深い谷や野であれば、太刀を鞘(さや)のまま高く上げ
た状態で、両方の道を一町(109m)行け。蜘蛛の糸が架かって
いる方の道へは行くな。しかしながら、これらは万が一のことであ
り、各軍には箒(ほうき)を10本ずつ持たせているぞ。道が分かれ
ている箇所があれば、兵が通った方に立てておけと言ってあるの
で、それを道しるべにして、遅れた兵は来るようにせよ」

 

と指示したのであった。何とも賢いことである。

 

 

同士討ちを避ける合印と合言葉

 

 夜襲で同士討ちを避けるための合印(あいじるし)は、物の具の
わたがみ(鎧の胴を吊った、両肩に当る幅の狭い部分)に赤い布
を八寸(24cm余り)に切って付けた。また、合言葉は、「誰れぞ」
と言えば、「勇」と答えよ、と詳細に指示を与えており、松明(たい
まつ)をとぼすことなく行動した。

 

 

忍びの潜入と松明

 

 平群に到着したのは、午前5時頃であった。正氏の兵の中から、
木子兵太(きのこのひょうた)という忍びを遣わした。敵陣の備えは
粗雑であり、忍びが簡単に潜り込めたので、すぐに100余騎を
徒歩兵にさせて、陣所へ忍び込ませたのであった。

 

 正成は、正氏の陣から六町(約650m)退いて兵を備えた。
和田は、正成の陣から二町(約220m)ほど退いて陣を堅くした。
楠木は諸軍勢に松明を、一人当たり3個持たせていた。そして、
足軽の兵を80余人ずつ、和田の陣の後ろの山々の嶺という嶺に
密集した林のように、松明の200~300をひとかたまりにして、
あちらこちらにとぼしたのであった。

 

 楠木の陣からこれを見ると、天が輝き、闇の夜が昼に変わった
ようであった。

 

 

平群の敵陣を不意急襲

 

 そこで正成が陣から太鼓を打つと、正氏勢が時の声を発して
敵陣に乱れ入った。

 

 敵陣の中にいた兵は、昨日今日まで正成は未だ都にいるものと
聞いていたので、今こうして攻め寄せてくるとは思いもよらなかった。

 

 「これは何事だ」

 

と周章狼狽していると、正氏の兵が、

 

 「あの正成がこちらに向ってくるぞ」

 

と声々に叫んだ。平群の軍勢が向かいの山を見れば、数えきれぬ
ほどの松明があった。気が動転して戦う気力もうせたところへ、
正氏の500余騎が切り込んで戦った。

 

 あっという間に数えきれぬほどの者が討たれた。

 

 

多門丸(正行)、戦場に到着

 

 また、正氏が切り込むと同時に、あらかじめ潜入させていた兵が
数箇所に火をかけて、5~10騎ごと前に敵がいれば、その後ろか
ら攻めて、(正氏勢と)はさみ討ちにしたので、敵陣はたちまちに
敗れて、数えきれぬほどの者が討たれた。

 

 正成は、先陣の兵と和田の兵とを乱して敵を追わせた。軍が
散らばってしまったので、自分は敵の城の右にあった高い嶺の
上に登った。城には田原・勝田に200人を指揮させて入れ、こ
れを守らせた。

 

 前もって取り決めていたとおり、敵を一里(約3.9Km)追った
ところで軍勢は引き返して、それぞれの陣を堅くしていたところ
へ、おそらく楠木が申し付けていたのであろう、8歳になる子息
の多門丸(正行)を大将として、志貴右衛門・牲川(にえかわ)・西
川ら宗徒の者どもが2千余騎で父・正成の陣に到着した。

 

 この勢もまた、三手に分けていたのであった。先陣は志貴の
600余騎、中陣は多門丸の1千余騎、後陣は西川の600余騎
であった。

 

 それぞれが午前3時過ぎに千早を出発して、午前7時頃に平群
に着いた。その道のりは六里(約23.5Km)であったが、父・正成
は、多門丸の手を取って、

 

 「ずいぶん早く来れたなあ。そなたは子供ながらも、天皇の御役
に立てる人ではないか」

 

と、涙を流したのであった。多門丸が少しも臆した気色なく、物の具
を身につけ馬に乗って来たので、このように褒めたのであった。

 

 後に帯刀正行(たてわきまさつら)といわれたのが、この多門丸の
ことである。

 

 

敵に和睦を求めた楠木のねらい

 

 後になって足利高氏と新田義貞が、この合戦について正成に
問うことがあった。正成が語って云うには、

 

 「あらかじめ和睦をなそうとしたのには、先ず多くの謀がござい
ました。正成は都にあり、敵は大勢でした。河内に乱入しようとす
るのは疑いありません。万が一にも若い者たちがそこつに戦って
負けたならば、後日に戦をやりづらくなるので、和睦を成したの
です。これが『柔はよく剛を制する』という謀です。

 

 また、敵は寄せ集めの武者です。これは次第に衰えていく兵
です。味方は正成の数代の郎従です。正成は少しも非道を為し
ません。今、諸国が家人を憐れんでおられてとしても、正成ほど
の温情ではございますまい。ましてや亡びた鎌倉幕府の残党な
どに、どうして郎従たちが私に替えて付き従うことがあろうかと
の判断から、各自で敵中にいる知人との友好関係を持たせたの
です。

 

 たとえ敵が千早に来たとしても、私の城へ攻め寄せることは
思いも寄らないこと。また、敵が要害に陣取るのを偵察したとこ
ろ、今攻め寄せれば、謀はいくらでもできるとの思いから、この
ようにいたしました。正成が考えたとおり、友好的にふるまって
こそ敵陣のことも、智謀の士(恩地などを指す)を遣わして見て
くることができましたので、やがては敵を討ち亡ぼしたのです。

 

 とにかく敵のことを知らなければ、謀は成功しないものです。

 

 

なぜ敵を急襲し、多門丸を来援させたのか

 

 また、大急ぎで出発いたしましたが、千早でのんびりと敵情
報告など受けていれば、策略ではなく本当に敵に通じる者が
出ないとも限りませんでした。友好的なふりなどしていない普
段の敵でございますれば、あまり考慮する必要はございませ
んが、友好的なふりをして通じている敵でございますればこそ、
このように急いだふりをいたしました。

 

 また、多門丸に申しつけて、後から兵を到着させたのは、
元々敵が大勢であっただけでなく、もしも翌日、敵が城に戻
って来て攻めてきたならば、味方は終日遠路を越えて疲れ、
しかも小勢でございますれば、戦いも危うくなろうとの思いか
ら、新手の戦力として多門丸には申し付けておりました。

 

 そもそも遠い所から夜中に寄せて戦い、それに勝ち誇って
いた兵が、疲れて気を抜いたところに攻め寄せれば、勝てるも
のでございますぞ。敵はよもや(こちらが)気づいていないだ
ろうと思って、攻め寄せることでしょう。

 

 その日は夜襲を終えて、丸一日軍勢を休ませていると、大和
国から軍勢が数多く集まって、1万ほどになりました。次の日に
は、これらの軍勢をあちらこちらに向わせたところ、大和国では
敵がどこへ行ったのであろうか、一人もおりません。そこで、河
内のことが心配になって、所々の城に兵を籠らせておき、私は
河内へと帰ったのでした」

 

とのことであった。これらを聞いた諸将は皆、

 

「楠木の謀は、凡慮の及ぶところではない」

 

と賞嘆されたのであった。

 

 

(「飯盛城攻略作戦 その4」へ続く)

 

 

 

 

(いえむら・かずゆき)

 

 

(平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)11月21日配信)

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