【第33回】 志貴右衛門と湊川の戦い(前段)

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【第33回】 志貴右衛門と湊川の戦い(前段)

ごあいさつ

 

 皇紀2675年、平成27年、あけましておめでとうございます。日本兵法研究会会長の家村です。

 

 今から約680年前、後醍醐天皇の討幕挙兵にいちはやく出陣した大楠公・楠木正成は、その天才的な兵法で鎌倉幕府を滅亡に追い込み、さらに足利尊氏の賊軍を散々な目にあわせました。こうした楠木正成の活躍を余すところなく描いた古典が『太平記』であり、その軍事解説書が『太平記評判秘」伝理尽鈔』でした。昨年5月以来、この『理尽鈔』の中から、「統率力」を焦点にして抜粋し、現代語に訳して皆様に紹介してまいりました。これらを読まれた皆様は、楠木正成こそが智謀と仁愛と勇気を兼ね備えた、日本の歴史上比類なき人物であったことをご理解いただけたかと思います。

 

 さて、いよいよ今回と次回の二回にわたって、楠木正成の最期を飾った壮絶な戦い「湊川」について、ご紹介いたします。そこであった史実を知れば、大楠公・楠木正成がなぜ、史上最強の軍勢を育てることができたのか、という問いに対する答えを見出すことができます。

 

 それでは、本題に入りましょう。

 

【第33回】 志貴右衛門と湊川の戦い(前段)

 

 

鎌倉幕府滅亡から兵庫への出陣まで

 

 鎌倉幕府の第十四代執権・北条高時が権力を恣(ほしいまま)にし、世の中が乱れていたのをみかねた後醍醐天皇は、元弘元(1331)年に幕府打倒を目指して笠置山で挙兵された。帝は夢の中でのお告げに従い、大楠公・楠木正成を笠置の御座所に召された。

 

 帝から「勝てる見込みはあるか」とのご下問を受け、38歳の楠木正成は答えた。

 

 「幕府の大軍など恐れることはございません。智謀を以てすれば勝てます。たとえ一時は敗れることがあっても、正成一人、この世に生きているとお聞きになられたならば、必ずや聖運は開けるものと思し召しくだされますように。」

 

 そして楠木正成は、すぐに赤坂城で兵を挙げ、翌年には、難攻不落の千早城において数々の奇抜な戦法により、幕府軍による攻城を七十余日もくい止めた。これにより幕府の権威は完全に失墜し、全国の諸豪族の勤皇心が喚起され、やがて鎌倉幕府は滅亡した。

 

 その四年後の延元元(1336)年5月、建武の中興に不満を抱く武家たちを糾合した足利尊氏の大軍が京に向かい九州から攻め寄せてきた。新田義貞が率いる官軍は、これとまともに戦うことなく兵庫まで退き、恐れをなした公卿は楠木を宮中に召した。

 

 正成は「足利軍を京に引き入れ、淀川を塞ぐことで兵糧攻めに遭わせてから、京を奪回する」必勝の策を上奏したが、公卿・坊門清忠の反対により後醍醐天皇がこれを採用されなかったため、やむなく君命に従って兵庫へと向った。

 

 戦死を覚悟した正成は、途中で11歳になる息子の正行(まさつら)を河内から桜井の宿に呼び寄せ、たとえ天下は尊氏の世になろうとも、金剛山の麓で帝を守護して戦うことなどを説き、兵法や国政などについて自ら書きおいた巻物と祖父伝来の刀を与えた上で、7600余騎を随えて河内へ帰した。また、恩地左近太郎・和田和泉守など、主だった郎従にも、正行にお供をして千早へ帰るように命じた。そして自らは、弟の正氏と一族郎党700騎のみを率いて兵庫へ向かった。楠木勢の誰一人として臆する者はなく、皆が正成の為に一命を捨てることを望んでいた。(注:詳しくは、第1回掲載文「桜井の別れ~最もよく統率された軍勢の姿」を参照)

 

 5月25日朝、足利直義が率いる3万5千の軍勢が陸路から官軍の陣を攻撃し、尊氏が率いる2万の水軍は海路から和田岬に本陣を構える新田勢の背後に回り込んできた。新田勢は海上の敵が東へ向かうのにつられて生田の森まで東進、これにより会下山に陣を敷いていた楠木勢は敵中に孤立したのであった。

 

 

楠木勢は皆、一騎当千の勇士

 

 (以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第第十六 正成兄弟討ち死にの事」より)

 

 楠木正成は兵たちに向かって叫んだ。

 

 「ここまで私についてきた皆は、一人として生きのびようとは思っていない、一騎当千の勇士である。くれぐれも卑怯なことをして敵に笑われるなよ。」

 

 兵たちは皆笑って、「どうして卑怯なふるまいなどいたしましょうか」と申した。

 

 足利軍は先ず、赤松の軍勢が3千余騎で攻めかかって来た。楠木勢の先陣・志貴右衛門は、300余騎で敵を100メートルほど近づけ、真正面から魚鱗の陣で突入した。赤松勢はたちまち四方八方へと散った。楠木兄弟の軍勢が後陣から「えいや、えいや」と声を挙げ、陣形を乱さずに攻めかかったところ、敵の二陣、三陣も皆、乱れ散った。そこで、楠木勢700余騎は三手になって魚鱗の陣で敵将・直義の本陣めがけて攻め入った。直義は須磨の上野(うわの)まで逃げ、軍も乱れて四方八方に散った。

 

 数多の敵を討ち取り、直義が本陣を置いていた小高い丘に菊水の旗を立てると、楠木の兵たちがあちこちから集まり、勝ち戦(いくさ)に大いに勇んでいた。正成が兵たちに食事をとらせて休息させながら、「誰が討たれたのか」と問うと、50余人が戦死していた。

 

 やがて和田岬付近に敵が多数上陸し、また、追い立てられた直義も敗残兵を集めて再び攻めようとしていたので、正成は軍勢を湊川まで退かせて陣を備えた。そこへ義貞の使者が「生田の辺りまで退かれよ」と伝えに来たが、「世はこれまで」と思い定めていた正成は、

 

「まずは近くの敵を追い払ってから・・・」

 

とだけ返事をした。

 

 

足利直義の軍勢を再び撃破

 

 直義は楠木勢が湊川へ退いたのを、京への総退却と勘違いして、1万余騎で攻めかかった。これを見て正成は、軍勢に命令した。

 

 「どのみち勝つべき戦ではない。左馬の頭(直義のこと)を討って冥途(めいど)のみやげにせよ。」

 

 そして、再び三手に分けて静々と攻めかかった。すでに一度楠木勢に破れていた直義の軍勢は、一たまりもなく逃げ散った。無念に思った直義が近くの兵300ばかりを集めて魚鱗の陣で攻めかかると、楠木勢の先陣200余騎が直義を発見し、願うところの幸いとばかりに猛進してきた。

 

 楠木勢は常に5人から10人が一団となって戦うことを躾けられていたのに対して、直義勢は各個バラバラに戦ったので、敵はすぐに敗れてしまった。

 

 逃げる直義の馬に矢があたり、楠木勢に追いつかれそうになったが、備中の薬師寺という武士が蓮池から引き返して奮戦し、敵2騎を切り倒した。これにより、直義は馬を乗り換えて落ち延びることができた。

 

 

船から上陸した敵軍勢が迫り来る

 

 これらを船から見ていた尊氏が「直義を討たすな」と命じたので、先ず高師直の軍勢3千余人が一陣になって進み、細川・仁木・吉良・石堂・畠山らの軍勢9千余人がこれに続いた。これらの多くは船に乗って来た兵なのでほとんどが徒歩であった。そこで正成は疲れた兵を休ませ、敵を近づけてから騎馬兵で敵の徒歩兵を一挙に蹴散らそうとした。

 

 一方で高師直は、「楠木は今日を最後の戦と心に決めているのだ。通常の戦い方では負けてしまうぞ」と考えて、弓に優れた兵を選んで前面に立たせ、3千余人を魚鱗の陣にして、

 

「陣形を乱すな。近づく前に弓で射よ。攻め入る敵は切って落とせ」

 

と命じた。これは、かつて正成が師直に語っていた戦法をまねたものであった。静かに前進してくる師直勢を見た正成は、「あの陣容では決着がつかず、騎馬兵だけで蹴散らすことはできない」と考え、当初の作戦を変更して先陣を志貴右衛門とし、こちらも魚鱗の陣を取らせて射手を前に進め、二陣は正成自らが騎馬70騎を一団にして進むことにした。

 

 

兵士らの勇気を奮い立たせる

 

 正成は、兵たちに向かって叫んだ。

 

 「ああ、何と剛毅な者たちであろうか。我国において諸君たちほど勇猛な兵士はいない。直義の大軍勢を三度まで追い散らし、疲れた身で再び大勢に攻め懸かっていくとは、前代未聞、まして後代にさえあるとは思えぬぞ。あれを見よ。あれ程に勝ち誇っていた師直の兵の旗の色の悪さよ。今すぐに討たれてしまうに違いないぞ。」

 

 これを聞いた楠木の兵たちは皆、湧き上がる勇気に身震いした。志貴右衛門が申した。

 

 「今日が最後の御合戦であればこそ申し上げます。私は以前から殿のために討ち死にして御目にかけようと思っておりましたが、弱敵ばかりだったので今までながらえております。この度は、師直を組み伏せたくございます。その理由は、かつて河内で別当に城を取られたこと、実にもって無念にも、恥ずかしくもございますので・・・」

 

 正成は言った。

 

 「その思いこそ、真(まこと)の武士でございます。一代に二、三度の失敗はあるもの。そなたの手柄は度々ありました。数えきれぬほどに・・・」

 

 

城を取られた志貴を叱らなかった楠木

 

 (第9回掲載文「叱るよりほめよ」より)

 

 その昔、矢尾の別当顕幸(やおのべっとうけんこう)という法師が、領地のことで楠木氏と争っていた。大楠公の代になってもしばらく戦いが続いていたが、その頃、楠木の郎従・志貴右衛門が、100余騎にて一城に籠った。別当顕幸は直ちに50余騎にて、その城へ向かった。志貴は城を出て戦ったが、打ち負けて城へ入らず、郎従18騎が討たれながらも、すぐに大楠公の館に来た。

 

 周りの人々は、

 

 「別当顕幸と当家との所領の争いで城を取られたのは初めてのこと。これほどまでに負けたとあっては、法師にも勝てぬただの尼僧ではないか。恥をさらすよりも、いっそ死んでしまえ・・・」

 

などと嘲笑して云った。

 

 大楠公は志貴に対面して、戦いの様子を詳しく聞いてから、これまでの志貴の数々の戦場での忠義、勇敢な行動や、賢明な判断などを語りだし、

 

「そなたは、それほど愚かないくさをするような殿ではござらぬ」

 

と言った。そして、

 

「御身が無事で死をまぬがれたことこそ、うれしく思うぞ。死んでしまった兵は、なげいたとても帰ることは無い。そうであっても正成、この故に多くの士が討たれてしまったことは、実に不憫(ふびん)に思うぞ」

 

と涙ぐんで、

 

「この度の事、そなたの謀、いくさだての間違いは、ただ正成の天命が間違ったからでこそあろう。そなたの間違いではない・・・」

 

と言ったのであった。また、戦場に捨ててしまったであろうとのことで、新たな馬と物具を与えた。さらに、討たれた兵たちの妻子を呼び寄せ、皆に米銭・金銀の類をその身分に応じて与えたので、皆がその情け深さに感じ入った。

 

 それから半年後、志貴は謀をめぐらし、別当に取られた城を夜討ちにより取りかえしたのであった。

 

 

(「志貴右衛門と湊川の戦い(後段)」に続く)

 

 

 

(いえむら・かずゆき)

 

(平成27年(皇紀2675年 西暦2015年)1月9日配信)

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