【第11回】千早城外での夜討ち

終戦70周年記念出版 『大東亜戦争と本土決戦の真実―日本陸軍はなぜ水際撃滅(すいさいげきめつ)に帰結したのか―』(260ページ 定価1600円+税 並木書房)

【第11回】千早城外での夜討ち

ごあいさつ

 

こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 

読者の伊賀山猿さまから、メールで次のような
ご指摘をいただきました。

 

いつも楽しく拝読させていただいております。
下記、「和泉国」は、「大和国」だと思います。

 

    伊賀山猿

 

 これは、前回の冒頭で『太平記秘伝理尽鈔』
巻第一から『太平記』が全四十巻となった経緯
を紹介いたしましたが、その文中で「和泉国の
多武峰(たふのみね)」、「和泉国十市の人」と
記したことについてのご指摘です。

 

 そのとおりで、私の誤りでした。正しくは、
「大和国の多武峰(たふのみね)」、「大和国
十市の人」でした。原文では「和州」とあった
ので、すっかり「和泉国」と思い込んでしまった
のです。楠木正成の所領が河内国・摂津国・
和泉国であったことも、一つの先入観となっていました。

 

 以下、訂正した文面を再掲いたします。

 

 

(引用開始)

 

 また、大和国の多武峰(たふのみね)において
書かれたものが十二巻あった。その作者は
六人である。

 

 教円上人、南都(奈良)の人である。

 

 義清法師、これは高徳入道のことである。

 

 寿栄法師、これは玄恵の弟子で、大和国十市の人である。

 

 北畠顕成、これは顕家の子で、二十六歳で
出家して、法号を行意と号した。歌道の達者である。

 

 証意法眼、これは興福寺の住僧である。

 

 そして、日野入道蓮秀である。

 

 このようにして、十一の巻から以後の虚実を正し、
次第を連ねて、虚を除き、実を加えたのであった。

 

 ・・・以下略

 

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より)

 

 

 それでは、本題に入りましょう。前回に引き続き、
千早城の攻防戦からのエピソードです。

 

 なお、千早城の戦いにつきましては、拙著「名将
に学ぶ世界の戦術」(ナツメ社)の178頁から185頁
で詳しく図解しておりますので、ご興味のある方は
こちらも是非ご一読ください。

 

 

【第11回】千早城外での夜討ち

 

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より)

 

 

十分な水を蓄えていた千早城

 

 1333(元弘3)年閏2月22日、千早城を
包囲した鎌倉幕府の軍勢・百万騎(『太平記』
による)は、わずか千人にも満たない楠木の
軍勢を侮って千早城を攻めた。これに対して
楠木軍は、千早の頂上から大石を落としかけ、
矢で射たてることで、幕府軍に大打撃を与えた。

 

 最初の総攻撃に失敗した幕府軍は、楠木の
城兵が渓流の水を汲んでいるものと考え、
水攻めにしようと図った。そこで、名越越前守
(なごええちぜんのかみ)の軍勢3千余騎に
千早城北東の谷川の水源地を見張らせた。
名越勢は水辺に陣を構え、城から人が下りて
来ると思われる道々に逆茂木を設けて待ち構えた。

 

 しかし、楠木正成は城内に湧き水や雨水
などで用水を確保していたので、この作戦は
全く効果がなかった。千早城の中には、五所
の秘水という、修行でこの山を行き来する山伏
が密かに汲む水があった。この水は、どんなに
日照りが続いても渇くことがなかったので、
これを城兵たちの飲料水とした。

 

 消火や予備の飲料水などとしては、大きな
木をくりぬいた舟を二、三百ほど作り、これに
水を貯めた。また、城内の建物の軒には
すべて雨どいを取り付けてそれをつなぎ、
雨水を一滴たりとも残さず舟に受けた。
それらの舟の底には赤土が沈めてあり、
水の腐敗を防止していた。このように千早城
は、たとえ五、六十日間雨が降らなくても、
持ちこたえることができたのであった。

 

 

楠木、夜討ち(=夜間の襲撃)を決心

 

 そうとは知らない名越勢の兵士らは、
城中から人が下りて来るのを今や遅しと
待ち受けていた。最初の数日こそ気も張って
いたが、四~五日もするとだんだん気が緩み
だし、敵はこの水を汲みに来ないのでは、
とさえ思い始め、警戒心も緩んできた。

 

 この様子を一部始終知っていた楠木正成は、
満を持して決心した。

 

 「敵も退屈しているころだ。今夜あたり、
そろそろよかろう。・・・」

 

 

名越の陣に忍びを入れて情報収集

 

 名越勢を夜討ちするにあたり、楠木は先ず、
七日間にわたり忍びの兵を名越の陣に遣わした
という。それも、入れ替え入れ替え、毎日別の
忍びの兵を遣わすことで、その口々に報告
することの一致するものと相違するものとを
分別し、あるいは正成の判断に合うものと
合わないものとをよく比較して考察した。

 

 そして、これらの忍びの兵から勝れた者を
選んで、相じるし(=味方を識別するもの)を
付け、合図の言葉を定めたのであった。

 

 

楠木軍の陣立てと各隊の任務

 

 正成が、名越の敵陣を偵察すると、狭いもの
で九町(約981m)、さらには十六町(約1744m)
~十七町もあった。城から名越の陣までは、
およそ五町(約545m)と少しばかりであると
見積もって、3百余騎を三つに分けた。

 

 先頭には湯浅六郎に、百余人を従えさせて、
「水辺にて番する兵を討て」と命じた。

 

 二番は、北辻玄蕃宗持に、百余騎を従えさせて、
「名越が陣を乱して騒いでいる所へ攻め込め」と
命じるともに、宵から侍16人を敵陣内に潜入
させておいて、「名越があわてて出て来れば、
これと組め」と命じていた。

 

 三番は、楠木三郎正純(七郎の弟)に、百余騎
を従えさせて、「城の山下の小塚に、軍の備えを
堅くして、先頭と二番を進ませよ」と命じた。

 

 そして、(襲撃の)時刻を計画するのであるが、
忍びが云うには、「名越は、夜毎に夜半過ぎまで
は囲碁・双六・酒宴にて遊び呆けている」という
ことなので、正成は「そうであれば」として、「卯の
一天(午前5時~5時半)」と定めたのである。

 

 また、城に残すところの兵、5百人にも物具
(もののぐ=鎧兜)を着用させて、各人の持ち口
と櫓に登り、もしも敵が寄せ来たならば防ぐよう
に命じて、待機させた。

 

 

正成、三度の太鼓により指揮

 

 正成は30人ほどを連れて、城の坂半分の場所
から敵陣を見ると、朝霧が深かった。そこで、
正純の陣との間隔二町(約218m)ほど後ろに
ひかえて、諸卒に向かって次のように命じた。

 

 (以下、千早城外における楠木正成の下知)

 

 この場所において私が三度の太鼓を打つ。

 

 一度目の引き太鼓にて、先の二百余人(注:先頭・
湯浅と二番・北辻の軍勢)は引け。たとい大将
名越と戦い、防ぎ止めていたとしても、太鼓を
打ったならば、捨てて引くようにせよ。

 

 その理由は、大将名越を討ち取ろうなどとして
まで、敵を痛めつける戦いではない。これまでの
(築城や戦など)疲労の中で私に従ってくれた
面々は、一人でも討たれることがあっては、
私にとって大なる戦力低下であるぞ。その上、
各々に一人でも錯誤があれば、正成は左右の
手一つを討ち落とされてしまうようなものである。

 

 先の二百余人が、正成の居る場所を
上り過ぎようとする頃に、二度目の太鼓を打つ。
その時、正純が引け。たとい先の二百余人が
一番目の太鼓で引かなかったとしても、
二番目の太鼓を打ったならば、正純は引け。

 

 先の衆もあえて言うまでもないが、よくよく
聞いておくこと。一番目の太鼓に遅れて引く
ようであれば、先を捨てて正純を引かせるぞ。
正成もこれと同時に引くようにする。のろのろと
鈍い動きをして敵に追尾されたら、城の木戸を
閉じて各々を捨ててしまうぞ。

 

 その理由は、先を捨てるのは、少ない損害
で済む。各々を助けようとして木戸を開けば、
敵に城を落とされることになる。そうなれば、
君の御為・家の為に大きな損害を与えること
になる。断じて、正成一人の命を惜しんで各々
を捨てるのではない。

 

 また、正成が太鼓を打たない間は、鬼神が
天から降ってきて敵になったとしても後へ
引いてはならないぞ。いかにもいかにも心強く、
どこまでも追い付けられよ。そして、その後には
正成が居るからには、どのような状況でも安心
して、各々は一足も早く城へ入るようにせよ。

 

 この度は、合戦において引く時のやり方とは
全く違うものになるだろう。(注:合戦の時は、
早くもなく、遅くもなく、将の下知に随って引くが、
夜討ちの時は、とにかく早く、一挙に引く。)
ただ、一足も急いで城へ入られるならば、
正成も早く城に入ることができるぞ。

 

 三番目の太鼓は、正成が今こそ城へ入るぞ、
という意味の太鼓であるぞ。

 

 

 (千早城外における楠木正成の下知、終わり)

 

 

正成、最後に城に引き上げる

 

 このように約束事を定めて全員に徹底していた
楠木軍は、『太平記』に書いてあるとおり、
水辺の敵を討ち取り、名越の陣も打ち散らして、
数時間にわたり敵を討った。

 

 ある程度の時を経て、名越の近くの敵陣が、
闇夜の中で動き叫んで、騒がしくなるのを見て、
正成が太鼓を打つと、約束事を違えずに
二百余人が引いて来た。

 

 正成が居る場所を足早に通る先の
二百余人の兵たちに、正成は声をかけた。

 

 「よくやった、見事だ。さあ、急げ、急げ。」

 

 このように下知して、二番目の太鼓を打つと、
楠木正純の軍勢が引いて来て城に入った。
ちょうどその頃、数万の敵軍が名越の陣へと
駆け付けているところであった。

 

 正成が三番目の太鼓を打つと、名越の陣に
集まった幕府の軍勢は約千余りにもなっていた
であろうか、蜘蛛の子を散らすように、四方へ
ぱっと散ったのであった。おそらく、この太鼓
の合図で、また楠木が攻め懸かって来るのだ
と勘違いしたのであろう。正成は、これを見て
にっこりと打ち笑い、快げな様子で30余人
を前後に立てて、千早城内へと引き上げた
のであった。

 

 これらのことは、非常に優れた謀である、
と内外の人も申していたという。

 

 

(「千早城外での夜討ち」終り)

 

(平成26年(2014年)8月1日配信)

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