神は賽子を振らない  第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(34)

1986(昭和61)年、初めて開催された日米共同実動演習で九州の日出生台演習場が使用されたのだが、その際の地元民の反対の声は防衛庁・自衛隊の想像をはるかに超える激しさだった。というのも、湯布院や別府は朝鮮戦争時に米軍の戦力回復地として利用されており、そのときに地元の婦女子を含む住民に対する暴行事案や犯罪が多く発生したという。
「占領軍として日本を統治していたが朝鮮戦争で急きょ戦線に駆り出され、心身ともに傷つき、回復地をすさんだ気持ちのはけ口にした。長い戦争が終わり平穏に暮らしている地元民にすれば迷惑千万」という、勝者と敗者の複雑な事情もあったのだろう。30年の年月が経っても、地元住民にはそのやりたい放題のふるまいに対する恨みは消えていなかった。
米軍に対する強い嫌悪感はそのまま反対運動となり、演習の実施は困難を極めた。日米同盟の枠組みの中で行なわれる共同訓練が、自衛隊に対して協力的な九州の地でこれほどまでに反対されるとは思ってもいなかった陸自と西方にとって、これは大きな誤算だった。

その西方が、第二回日米共同訓練も再び担当することになった。西方でこの訓練を計画、準備、実施まで担任するのが防衛部訓練班である。1回目の教訓を生かし、今度は滞りなく演習が成功裏に終われるよう、万全を期することが求められた。しかし、ちょうど防衛部訓練班長が交代の時期を迎えていた。

この重圧に耐え、陸自の期待に応えられ、反対運動をできる限り局限し、演習を成功させることができる総監部の訓練主務者。さらに三月異動予定にある二等陸佐。これが西方の求める訓練班長であり、幸か不幸か条件に合致していたのが火箱だったのだ。前任の訓練班長は防大12期だったから、18期の火箱は全方面隊でいちばん若い訓練班長だった。大抜擢である。

火箱を強烈に推した人物のひとりが、西方総監部の花岡行政副長だった。この人物こそ、火箱が幹候卒業後、最初に着任した沖縄で幹部としての心得を一から教わった中隊長、「軍神花岡」である。

はるばる九州から名指しで請われ、期の上の先輩を部下に持つ立場になるとわかっても、すぐに火箱の心が晴れたわけではなかった。同期の多くは陸幕に残り異動なし、自分は地方へ飛ばされる。都落ち、そんなやさぐれた意識もなかなか拭えなかったのだ。
実際のところ、方面隊の訓練班長を経て陸上幕僚長にまで上り詰めるというのはかなり異色の経歴だ。一般的には、火箱も異動するはずだった防衛部などでキャリアを積んでいくのが王道だった。後には、火箱の経歴を知り「方面隊の訓練班長やった人がよく陸幕長になれたな」と驚きを隠さない人もいた。そういう役職だったから、火箱が都落ちと肩を落とすのも無理はなかった。
それに、まだ手のかかる小さな娘を抱えながら引っ越しの準備をしなければいけない妻の負担を思うと申し訳なかったし、ふたりの息子はまた転校しなければならない(息子たちは結局小学校を3~4回転校した)。

(つづく)