神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(33)
陸幕広報室の報道担当として働いていた最初の一年、火箱は第一空挺団普通科群の中隊長着任に伴い引っ越してきた習志野の官舎から、六本木の防衛庁まで通勤していた。
広報の朝は早い。七時までに新聞各紙朝刊に目を通して自衛隊に関する記事を切り抜き、さらに全国からファックスで送られてくる地方版の記事も加えて、ダイジェスト版を作成するのだ。それを陸幕長はじめ各部署に配布するため、毎朝五時には家を出ていた。
夜もいつも終電に間に合うかというぎりぎりの時間で、東京駅をダッシュすることも日常茶飯事だった。なんとか帰宅できてもすでに午前一時を過ぎている。三時間後には起床しなければならないから、当時はいつも寝不足がきつかった。
二年目に杉並の官舎に転居できてからは、通勤はぐっと楽になった。報道Aという防衛記者担当の業務にもすっかり慣れ、 多忙だが充実したやりがいのある日々を送れるようになった。が、それは異動の時期が迫っているという証でもあった。
同じ部署、同じ役職にとどまっていられるのは長くても二年。退官の日を迎えるまで、延々異動を繰り返すのが幹部自衛官の定めだ。
空挺の中隊長といい陸幕広報といい、結果的には大きな経験値を得ることができたが、内示を受けたときの火箱はいずれも乗り気ではなかった。しかし今回は上司から「次は防衛部か人事教育部あたりで調整しているから」と言われていたので安心していた。防衛庁の〇階から〇階への異動という、いわゆる「スリッパ異動」である。それは当時の火箱にとって望むところだった。
母子ともに命の危険が迫り、緊急手術の末に未熟児で生まれた娘は幸い元気に育ってくれているが、まだ一歳。せっかく杉並の官舎で家族そろって落ち着いて暮らせているのに、またわずか一年で引っ越しをするのは正直いやだった。それに陸上幕僚監部で働く幹部自衛官には「最高司令部で働く幹部自衛官」という誇りもあり、「自分もついにその仲間入りができた」という秘めた喜びもあった。
ところがふたを開けてみれば、待っていたのは西部方面総監部の防衛部訓練班長というポストだ。勤務地は熊本、健軍駐屯地である。
「生まれ故郷に近い九州はともかく、なんで総監部!?」
陸幕の部署で調整されていたと思っていのに、どういうことか。
「俺は、陸幕では通用しないってことなのか?」
そんな苦い思いも湧いた。無駄だとわかっていたが、少しばかり「なんとかこっちに残してもらえませんか」と駄々をこねた。するとそれが耳に届いたのか、補任課長までやって来て「火箱君、(西方へ)行きなさい」と言う。二佐クラスの人事に補任課長がわざわざ足を運ぶことはそうそうない。
決まりかけていた陸幕への異動が一転、西方の訓練班長と思いもよらぬところへ転がったのにはわけがあった。