神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(26)

2023年6月15日

本来、陸幕広報に配属される幹部自衛官は、その前に電通や博報堂などの広告代理店で1年ほど研修し、広報や広告のノウハウを学ぶ。しかし火箱は基本的に「演習場で鉄帽に草を差して走り回っていた」ので、当然ながら広報に関する知識はみごとなまでになかった。本当に、皆無だった。だから「陸幕広報は建物を案内するガイド」と思っていたのである。
後に陸幕長となった渡邊信利陸将補(当時)から「お前、広報の中でも報道担当らしいな。報道担当は名門なんだぞ、俺もやった」と言われたときも「なんだよ報道って」と、そもそも言葉の意味がわかっていなかった。
陸幕広報というわけのわからない場所で働く気の重さといったら、空挺に着任する前の「なんで今さら空挺なんだよ」と思ったときの比ではなかった。そんな気持ちのまま、広報室へあいさつに行った。
その日はあいさつだけのつもりだったのだが、まさにそのとき演習場から砲弾が飛び出す事故が起き、「ちょっと手伝え」と言われた。
「補管班(補給管理班)に行ってQ&Aの調整してきてくれ」
「ホカンハン? Q&Aってなに?」
火箱の頭の中には「?」しかない。けれど広報室は報道発表に向けての準備でばたついていて、火箱の混乱にかまっている暇はない。
当時は六本木にあった防衛庁は、空挺時代に警備を行なったから、立地や建物については把握していたが、陸上自衛隊の頭脳の部分にあたる陸上幕僚監部の組織など知る由もない。
なんとか補管班を見つけたものの、今度は装備部のどことか武器課だとか教育訓練部だとか、事案の関係する部署に片っ端から行かされた。結果としてそれが陸幕広報室着任のあいさつ代わりになった。
各部署との調整が終わり記者発表することになったとき、「新任ですと防衛庁詰め記者たちにあいさつしてこい」と言われた。そこで「このたびの異動で第1空挺団火箱3佐は陸幕広報室報道担当を命ぜられました。よろしくお願いいたします!」と部隊の着任申告どおり大声であいさつしたところ、記者たちが「なんだなんだ」と驚きどよめいた。「ちょっと、そんな大きな声出さなくていいですから」。やはり部隊とは勝手が違った。
こうして、陸幕広報報道担当としての初日は波乱の幕開けとなった。広報業務について100%素人、新聞記者やマスコミの人と話したこともない。どんなマスメディアがあるかもよく知らない、あらゆることがわからないという未知の世界での勤務は、入隊以来、火箱にとって初めての経験だった。
ここで火箱が陸幕広報に着任した1988(昭和63)年当時の、自衛隊を取り巻く環境について触れておきたい。
約30年前の日本というと相当昔のような気がするが、この3年後には海上自衛隊の掃海艇がペルシャ湾に派遣され、その翌年にはPKO法が成立して陸自がカンボジアに派遣されたと聞くと、そう遠い過去の話ではないと感じるのではないだろうか。
1988年の日本はバブル絶頂期で募集難は深刻(特別職国家公務員ゆえ、景気のよいときは人気がない)、自衛隊への世間からの風当たりもまだまだ強かった時代である。
日本企業がゴッホの『ひまわり』を58億円で、『ガシェ博士の肖像』を125億円(!)で落札、ロックフェラーセンターを2200億円で買収、モータースポーツのF1チームも次々と買収された(1991年だが『少年ジャンプ』もマクラーレンホンダのスポンサーとなり、アラン・プロストとアイルトン・セナの乗るマシンのフロントノーズにはジャンプのステッカーが貼られていた)。
そういうバブル時代に自衛官になろうという人間の中には、やはりというか残念ながらというか、たちの悪い者もいた。特に任期制隊員だと「2年ごとに退職金もらえるのがいい」とか「いろんな資格を取ってから辞めて就職に生かす」とか、入隊時の動機からいつまで経っても抜け出せない者もいた。まだ海外派遣もなかったから「訓練だけやってれば給料をもらえる楽な組織」という意識で入隊してくる人間もいた。
(つづく)
(わたなべ・ようこ)
(令和四年(西暦2022年)12月1日配信)