神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(21)

2023年6月19日

これまでに書籍『神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生』の防大入学時から初任地の沖縄での経験、過酷なレンジャー課程、そして東日本大震災時の対応の部分を抜粋してこのメルマガでご紹介してきました。
今回から30~40代前半の、まさに心技体が満ち満ちた全開MAX状態である(それだけ浮き沈みが激しいということでもあるのですが)火箱氏の波乱万丈自衛官時代をご紹介します。
自分で取材し、書いて、そして読んで、改めて「本当にエンタメ本だなあ」と思います。これは私にとって火箱氏に対する最大の賛辞です。
2年間におよぶCGS課程での教育後、富士学校で訓練教官を務めた火箱が次に赴くことになったのは第1空挺団だった。
第1空挺団は1954(昭和29)年に福岡県で創設された臨時空挺練習隊、千葉県の習志野に移駐した後の空挺教育隊の編成を経て、1958(昭和33)年に編成された。1960(昭和35)年に東部方面隊新編に伴いその隷下となり、2007(平成19)年には中央即応集団隷下、そして2018(平成30)年には陸上総隊隷下となり現在にいたる。
所属している陸曹以上の隊員のほぼ全員が空挺・レンジャー徽章保持者という精鋭部隊であり、「精鋭無比」と称されることも少なくない。また、空挺隊員に対するおもな教育としては、ほかのレンジャー課程よりさらに過酷と言われる空挺レンジャー課程、降下の準備から降下および物料梱包から投下までの指揮・監督ができる隊員を養成する降下長課程、そして高高度から降下できる自由降下課程などがある。
火箱は20代前半の若い時期に空挺の基本降下課程を経験しているので、空挺徽章はもちろん、富士の幹部レンジャー徽章もある。陸自でもっとも精強な第1空挺団で思う存分力を発揮したいと熱望していた時期もあった。しかし新潟の高田駐屯地の第2普通科連隊に着任した時点で、「空挺はもうないな」と思った。空挺に行くならこのタイミングだと思っていたので、時機を逸したと感じたのだ。
体力的にはまだまだ自信があったが、もう何年も降下していない。傘の付け方もあやふやになった今になってお呼びをかけられてもと、火箱の心中は複雑であった。
「以前、空挺に行きたいと希望していたときには就けてくれなかったくせに。だいたい降下ってのは、普通は誰でも恐怖で緊張するんだ。それを何年もブランクがある状態で、いきなり空挺の中隊長をやれっていうのかよ」
富士学校で訓練教官をしているとき、次の補職先はどこがいいかと聞かれたことがあった。火箱は富士学校で連群長の地上戦闘の教育を担当したという自負があったので、その知識を活かすべく「第一線普通科中隊長がやりたいです」と答えた。その際、空挺の中隊長も打診されたのだが、「いやいや、私は空挺ではなくフツーの普通科中隊長がいいです」と重ねて上司の訓練班長に伝えていた。
ところが富士学校の普通科部長の水野陸将補から、「なにを言ってるんだ、だめだ! 火箱、決心しろ!」と強烈な指導を受けた。水野陸将補もかつて空挺の普通科群第2中隊長を務めていたこともあって、「2中隊は名門だぞ」と尻を叩かれた。
火箱にとって水野部長は単なる上司ではなく、防大1期生柔道部の主将で偉大なる大先輩、ほとんど神のような存在だった。そういう人から言われれば、もう腹をくくるしかなかった。
習志野の官舎への引越しを翌日に控えた日のことだ。突然、空挺の2中隊から「夏祭りがあるので中隊長も出席してください」と、隊員が御殿場の自宅まで迎えに来た。
「まだ中隊長に上番してないのに!」
驚く火箱を半ば強引に夏祭りの会場に連れていき、隊員たちは協力会などの方々へ紹介した。
さらに翌日も御殿場に現れ、「引越しを手伝います」。
引越し当日はあいにくの大雨で、道路も渋滞し、昼頃には習志野に到着する予定だったのが夕方になってしまった。しかもそのまま、「中隊長の歓迎会です」と連れ出された。
なんの荷ほどきもしていない状態で、妻と幼い子どもふたりを段ボールだらけの官舎に置いて、ほとんど拉致のような状態で2次会まで連れ回される。「空挺はとんでもない人使いの粗いところだ」。火箱はこの段階ですでに痛感した。
ようやくタクシーで官舎まで帰ると、官舎そばで消防団が「これ以上先には進めません」と車を止めている。どうしたのかと思えば、大雨のため道路が冠水し、官舎も1階の階段の途中まで浸水しているではないか。
(つづく)
(わたなべ・ようこ)
(令和四年(西暦2022年)10月27日配信)