神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(4)

先週に続き、元陸上幕僚長火箱芳文氏の半生を振り返る連載「神は賽子を振らない」の第4回をお届けします。
前回は防大を卒業し、幹部候補生学校に入校する直前に、まさかの「骨肉腫の疑いあり」という医師の診断。不安を抱えたまま新たな生活が始まったものの、幹候の医務官は頼りにならず、膝の痛みのために得意の駆け足でも力を発揮できる状態でないところまで紹介しました。
幹候の伝統行事ともいえる高良山登山走は入校前から優勝を狙っているほど気合が入っていたのですが……
今回はその続きからです。ではどうぞ。
行進程度なら膝にサポーターを巻きなんとかこなせたが、高良山登山のための練習はとてもできる状態ではなく、本番ではなにかあったらすぐさま助けてもらえる印となる赤いたすきをかけて走ることになった。これは火箱にとって耐えがたいほど屈辱的なことだった。
幸い膝の痛みも腫れも「塗ったり貼ったり看護婦のおふくろの助言をもらい、自分でいろいろ試して」、少しずつ引いて行ったが、結局検査らしい検査もしないままだったため、原因がなんなのかはっきりしないことがもやもやして気持ち悪かった。少なくとも骨肉腫ではなかったことは確かだが、いまだに火箱の膝は少し痛む。
運動や訓練面では悔しい思いが残ったが、学業では手ごたえを感じることができた。戦史や防衛法制、防衛工学など基本的な初級幹部に必要な知識を学べる座学に打ち込むことは、膝のせいで存分に体を動かすことができないフラストレーションを緩和してくれた。
こうして半年間の候補生生活が過ぎ(現在は9カ月)、いよいよ幹部候補生として部隊に配置されることになった。
当時は冷戦真っ只中とあって陸自も北方(北海道)防衛を重視した部隊配置をしており、火箱も「ソ連が来たら追い返してやる」と、迷わず初任地の第一希望を北方としていた。
しかし実際配置されたのは、なんと沖縄。第1混成団第1混成群第302普通科中隊(那覇)である。
1972(昭和47)年5月15日の沖縄返還の後、同年10月に那覇駐屯地が新設、翌年10月に第1混成団が発足したが、当時は誰も行きたがらない任地だった。なにしろ当時の沖縄は自衛隊アレルギーがひどく、配属された隊員たちが散々苦労している話を耳にしていたからだ。
火箱は「うちの区隊から誰か沖縄に行くらしいぞ」という噂を聞いたが、まさか自分が行くことになるとは夢にも思っていなかった。しかし教官は「お前、第2希望は西方だっただろ」と。
福岡出身ということもあり、「九州」という意味合いで地元を第2希望にしていた。それがあだとなったのか、あるいは難ありの土地だからこそ優秀な初級幹部を送り込むことにしたのか。とにかく火箱は行くしかなかった。
幹候を出て最初に那覇に配属された初級幹部には、1つ上の先輩たちがいた。彼らが本土復帰後の沖縄に初めて配属され火箱が第2陣となったわけだが、幹候を出て最初の配属が沖縄というケースは、普通科職種からは火箱で最後となった。それほど当時の沖縄は自衛隊にとって厳しいところだったのだ。
住民登録を拒否されたり官舎(隊員とその家族が暮らすいわゆる社宅)の駐車場にある車を盗まれたり火を付けられたり、隊員が上陸時に竹で叩かれることもあった。航空自衛隊による沖縄防空任務も1973(昭和48)年7月から始まっていたが、おそらく空自も同じような苦労をしていたことだろう。火箱はそういう土地で3年間を過ごすことになる。
「神は賽子を振らない」は、月刊PANZERにて連載中です。
火箱氏は沖縄勤務中に幹部レンジャー課程や空挺基本降下課程など、防大時代から目標としていた課程を修了しています。また、当時の第1混成団長である沖縄出身の桑江良逢氏は、火箱氏が今も深く尊敬する人格者でした。
陸上幕僚長という位人臣を極めた人でも、その年齢、その立場なりの悩みや迷いを抱え、不平や不満も抱き、もがきながら武骨に進んでいくのだと、毎月原稿を書きながら感じています。書店でパンツァーを見かけたら、ちょっと中身をのぞいて見ていただければ幸いです。
(了)
(わたなべ・ようこ)
(令和元年(西暦2019年)8月29日配信)