神は賽子を振らない 第32代陸上幕僚長火箱芳文の半生(1)

月刊『パンツァー』で連載中の「神は賽子を振らない -第32代陸上幕僚長 火箱芳文の半生」ですが、今週から4回にわたり、その連載第1回をご紹介したいと思います。
火箱芳文は1951(昭和26)年5月15日、福岡県築上郡新吉富村(現在の上毛町)で4人兄弟の末っ子として生まれた。田園風景が広がる県境の村でのびのびと育ち、学校が終われば近くの山や川で遊び回る小学校時代を送った。
中学に入ると兄の影響で柔道を始め頭角を現す一方、相撲や陸上短距離走・砲丸投げなども行ない県大会にも出場、冬には駅伝にも駆り出されるという運動神経のいい子どもだった。しかも勉強もでき、高校は越境して大分県立中津南高校に進学した。
進学校だったので「高校は勉強1本でいこう」と思っていたもののやはり運動もしたくなり、最初は「週に一度くらいの練習なら勉強と両立できる」と軽い気持ちで柔道部に入部した。ところが顧問の指導は厳しく、毎日早朝練習に始まり放課後も夜遅くまで続いた。県大会レベルの個人戦ではそれなりの成果もあったが、勉強の成績はおのずと下がる。進学の担任からは「国立大学を目指すなら柔道部を辞めろ」と再三言われたが、結局高校でも柔道にのめり込んでいった。
卒業後の進路や将来どんな仕事に就きたいかは特に考えていなかったが、サラリーマンか学校の先生にでもなるのだろうと漠然と思っていた。ただ、防衛大学校に入った中学の先輩が夏休みに白い制服で帰省する姿を見て「防大いいなあ」と憧れる気持ちはあった。そもそも火箱は規律正しい生活が嫌いではなかった。だから規律正しい上に勉強も運動もしっかりやる防大が次第に進学先として具体的な対象となっていったのは、むしろ自然な流れといえるだろう。
自衛官になりたいというよりは、防大という環境で心身を鍛えたいという思いが強かった。しかも防大は学費がかからないから、さほど裕福でもない家庭の三男坊の進学先としては親に負担をかけることもない。こうして火箱は防大を受験、無事合格する。
火箱の父は職業海軍軍人で、戦艦陸奥に乗っていた話などを時折したが、防大への進学をすすめたことはない。むしろ両親ともども防大とは別に合格していたもうひとつの国立大学への進学をすすめた。「息子が自衛官になったら国に取られて二度と郷里へは戻って来ない」と思っていたようだ。
しかし火箱の意志は変わらず、1970(昭和45)年4月、憧れの防大へ第18期生として入校した。
防大での生活は、予想通り火箱の性に合っていた。
分刻みのスケジュールも、朝から夕方までぎっしり詰まった授業も、放課後に行われる校友会という名の部活動も(当然ながら柔道部に入った)、8人部屋での寝起きも、苦にならなかった。
各学年2名ずつの8人部屋は、1年はお互い協力しつつ傷口を舐めあい、2年は1年の面倒を見つつ直接指導し、3年は2年の指導の仕方を指導し、4年は全体を見つつ1年をかわいがるといった具合に、学年に応じた役割分担があり、フォロワーシップ、リーダーシップを学べる場でもあった。
校友会は、火箱が防大の4年間でもっとも力を入れた活動だった。
1958(昭和33)年から関東学生柔道優勝大会では8連覇を遂げるほどの強さを誇っていた柔道部だが、火箱が入部した頃は関東大会での優勝からは遠ざかっていた。
1年秋からレギュラーとなった火箱は、高校時代にインターハイにも出場した実績のある3人の同期たちとともに部を盛り上げ、3年時、ついに7年ぶりに関東大会団体戦で優勝する。翌年も連覇し、日本武道館での全日本学生柔道優勝大会への出場を果たした。しかも4年では秋の関東学生体重別選手権軽量級の部でも優勝、中量級、重量級も同期の川端、飯島選手が優勝し全階級制覇、全日本学生体重別選手権大会へ出場と有終の美を飾った。
いつも柔道の試合と重なっていたから、開校記念祭の棒倒しに参加できたのも引退後の4年の一度きりだ。棒倒しはボクシング部と空手部などは参加不可だが(おそらく負傷者の負傷レベルがしゃれにならなくなるからだろう)、柔道部は参加できるので「戦力になる」と喜ばれ、5大隊のキャプテンとしてチームをまとめ、みごと優勝して大いに盛り上がった。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(令和元年(西暦2019年)8月1日配信)