海上自衛官(1)

与那国島レポートをお届けする前に、昨年「JDA Club」というフリーペーパーの取材で出会った海上自衛官をご紹介したいと思います。取材時、統合幕僚学校の国際平和協力センター教育・研究室長だった林秀樹1等海佐です。
 林1佐へのインタビューは現在の業務についてではなく、家族について語っていただくというものでした。家族との絆がテーマのページで、これまでは「配偶者が自衛官」という夫または妻に話を聞くことが多かったのですが、今回は林1佐にお母様のことをお話いただくことになっていました。そして取材に同席されないお母様からは、以下のような手紙をいただいていました。

 2000年7月から約2年、米海軍太平洋艦隊司令部で勤務する息子に帯同してハワイで生活しました。74歳にして人生初の海外です。英語はまったくわからず車の運転もできない私が暮らしていけるのかと不安でしたが、陸自、空自の連絡官の奥様方、現地日系人の皆さんにも助けていただき、無事に過ごすことができました。
 思い出に残ることは多くありましたが、なかでもハワイに渡って半年後に起きた、米海軍潜水艦と宇和島水産高校実習船えひめ丸の衝突事故は、今でもはっきりと心に刻み込まれています。
 1955年、当時6歳だった息子(秀樹の兄)と旧国鉄宇高連絡船、紫雲丸に乗り合わせていた私は、日本で3番目の大惨事となった海難事故に遭い、私は助かりましたが息子を失いました。それから6年後に秀樹が生まれ、その息子が縁あって海上自衛官となりました。そしてハワイで、60年前に経験した事故と同じような事故が身近で起こりました。60年前は「子どもを返せ」と国鉄総裁に詰め寄っていた私が、今度は立場が変わって愛する家族を失った方を支えることとなりました。同じような海難事故で家族を失った者だからこそわかる心の痛み、自分だけが生き残ってしまった者だからこそわかる辛さなどを、もう一度思い出しながら精一杯お手伝いさせていただきました。少しでもお役に立てたのなら、これほどうれしいことはありません。

 
 思わず読み直す内容です。
 紫雲丸事故とは、1955年5月11日、宇高連絡客船の紫雲丸(総トン数1480t)と宇高連絡貨物船の第三宇高丸(総トン数1282t)とが、濃霧の中で衝突した事故です。船客781人と貨車等19両を載せた紫雲丸に第三宇高丸船首が衝突、紫雲丸は沈没し、船客166名および船長ほか乗組員1名が死亡または行方不明となり、船客107および乗組員15名が負傷した惨事でした。多数の旅客を輸送する大型連絡船の海難で死傷者の数が多かったこと、亡くなった船客の多くが女性、子ども、修学旅行生だったこと、レーダーという当時最新式の航海機器を装備した船舶間の事故であったことなどから、社会に大きなショックを与えた海難事故でした。
 そして2001年に起きたえひめ丸事故については、覚えていらっしゃる方が多いはずです。外務省のHPには、この事故について以下のように記されています。

(1) 平成13年(2001年)2月10日(日本時間)、ハワイ州オアフ島沖で愛媛県宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」(35名乗船)が、緊急浮上した米原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され沈没、乗員35名中9名(内高校生4名)が行方不明。
(2)米側はブッシュ大統領より森総理(当時)、パウエル国務長官より河野外務大臣(当時)に電話で謝罪した他、大統領特使ファロン海軍大将が大統領親書を携行して来日(2月27日~3月1日)し、愛媛県も訪問(2月29日)。米国はあらゆる面での責任を認めている。
(3)政府はホノルルに櫻田外務大臣政務官(当時)(2月10日~26日)、次いで望月外務大臣政務官(当時)(2月23日~3月1日及び3月5日~21日)を派遣、陣頭指揮。また、2月15日より同19日まで衛藤副大臣(当時)をワシントン及びホノルルに派遣。

 100%、米海軍の非による事故でした。えひめ丸は浮上中の原潜に船底から衝突され、沈没したのです。そしてこのとき、海上自衛隊の連絡官としてハワイの米海軍太平洋艦隊司令部で勤務していたのが林1佐でした。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成28年(西暦2016年)12月8日配信)