自衛隊海外派遣の歩み (7)

自衛隊海外派遣の歩みと称し、前回までペルシャ湾掃海艇派遣、カンボジアPKOをご紹介してきました。今回からはその歩みの3つめに当たる、国際貢献の新たな道を開いた国際緊急援助活動についてご紹介します。
最初の派遣となったのは1998年10月、ホンジュラス共和国のハリケーンに際しての国際緊急援助活動です。
 1992年に「国際緊急援助隊の派遣に関する法律の一部を改正する法律」が制定され、自衛隊は国際緊急援助活動に参加できるようになりました。大規模な災害によって被害を受けた国への救援は、スピーディな対応と短期間で成果をあげることが求められます。派遣される隊員に負担はかかりますが、その分「目に見える国際貢献」を果たした達成感もまた大きいものです。
 日本は海外、特に開発途上地域で大規模な災害が発生した場合に、JICAなどが中心となって国際緊急援助活動を行なってきました。しかし災害の規模によってはより大規模な援助隊が必要だったり、被災地で自己完結的に活動を行なえる体制が求められたりと、従来の法の枠では解決が難しい課題も抱えていました。
 法律の改正によって自衛隊が国際緊急援助活動やそのための人員などの輸送を行なえるようになった現在は、これらの問題は解消されました。自衛隊ならば現地で移動、宿泊、給食、給水、通信、衛生といった支援が受けられない場合でも、その装備や組織、訓練などの成果を生かして援助活動を実施できます。
 少し話がそれますが、東日本大震災では官民それぞれが持ち味を生かした支援が被災地で展開されました。多くのボランティアも被災地に足を運び、今でも息の長い支援を続けています。しかし阪神淡路大震災が起きたときは、今ほどボランティアは身近なものではなく、困っている人の助けになりたいと思ってもその手段がわからないということも多々ありました。また、これは実際に現地にいた人から聞いた話ですが、ボランティアに来ましたよと市役所にやってきた人の中には「それで僕らの食事はどこですか」と尋ねた人もいて、職員を唖然とさせたそうです。一方、自衛隊は自己完結が鉄則。自衛隊ならば間違っても「助けに行った人間が助けられる」というような事態はありえないわけです。
 1998年、ハリケーンによる大きな被害を受けた中米のホンジュラスに、自衛隊が初めて国際緊急援助隊として派遣されることになりました。現地で宿営し支援活動を行なうのは陸上自衛隊の部隊で、その部隊の必要とする装備品などを輸送するため、藤川壽夫1等空佐(当時)を隊長とした105名からなる空輸隊が編成されました。
「国際緊急援助法が改正されて、自衛隊も援助隊として参加できるようになりましたね。ちょうどその時期、空幕運用一班の総括をやっていたので、国際緊急援助活動関連の基本計画については私も関わりました。ただしこれはアジア、太平洋、オセアニア、このエリアだけに限定した計画でした。それが中米、約1万8000km離れたホンジュラスでしょう。検討している地域ではなかったので行くことはないだろうと思っていたのですが、どんどん状況が変化して、1週間後には出発ということになりました。当時、国外に運航できる機種は政府専用機とC-130Hだけ、必然的に小牧基地の第1輸送航空隊にお鉢が回ってきました。そしてそのときは小牧の副司令だったものですから、私も隊長として行くことになったのです」
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成28年(西暦2016年)1月14日配信)