自衛隊海外派遣の歩み (3)

アラビア半島からの砂塵やクウェートの油井火災による煤煙が舞い、日中の最高気温は40度以上にも達します。掃海作業はそのような過酷な環境条件下で行なわれました。しかも多国籍部隊に遅れて参入した掃海派遣部隊には、結果として技術的に非常に困難な海面が割り当てられることになりました。
 1200個あった機雷の約80%はすでに処理されていましたが、残り20%の機雷のある場所が、政治的、海域的にも難しいエリアでした。後から参加した自衛隊は、必然的にこのエリアを担当せざるをえません。
「シャトルアルブ川の河口なので砂で濁って視界が悪い、海は浅く流れは速い。しかも海中油田のパイプラインが海中を走っているから、機雷を見つけてもその場で処理できない。まずは機雷本体に入っている炸薬には手を付けずセンサー部分だけを壊して、水中アドバルーンでパイプラインのないところまで運んでから破壊する。ほかのエリアの倍の手間がかかりました」
 それでも作業そのものは普段行っていることと同じです。隊員たちは日頃の訓練同様冷静に作業を進め、この最難関のエリアでも17個の機雷を処理しました。
 掃海派遣部隊は日頃の訓練の成果を発揮して掃海作業を遂行、99日(航海期間を含めると188日)におよぶ全期間を通じ隊員の人身事故や船体などに影響を及ぼすような損傷は1件もないまま、合計で34個の機雷を無事処分しました。実際には事故につながる可能性のある故障や不具合は315件も発生したのですが、そのほぼすべてを隊員たちだけで直し、現地でも常時100%の稼働率を誇りました。
 彼らの作業に取り組む姿勢とその技術は、他国の部隊からも高い評価を受けました。
 退官後、当時を振り返った落合氏は「派遣部隊511名の最年少は19歳。平均年齢32.5歳という部隊を指揮して感じたのは、若い隊員が非常によくやってくれるということです。教育隊を出てからせいぜい6ヵ月程度の若者が、海外演習の経験もなくいきなり海上自衛隊初の海外派遣、しかもペルシャ湾ですよ。最初の頃はどうにも心配で。それがどんなに劣悪な環境下でも愚痴ひとつ言わず、実に働く。毎朝4時半起床、40度を超す灼熱地獄の中で日没まで掃海作業、与えられたわずかな水で体の汚れを落とすころは夜10時近い。しかも掃海作業中は船内に留まれないため、非番だろうが日中は甲板に出ていなくてはいけない。それでもぐっとこらえ、自分のなすべきことに真摯な態度で取り組む、その姿には本当に感動しました。『今の若い者は何と立派だろう』と思うようになったのは、この派遣からです」と語っています。
 落合氏の口からは、隊員たちへの感謝の言葉が幾度となく発せられました。それは階級や年齢を超え、共通の任務に対して心をひとつにしたという事実があってこそ生まれた、ゆるぎない思いだったのです。
「もちろん若い隊員たちだけではありません。誰もが素晴らしい順応性を見せると同時に、任務達成に向けて強い意志を持ち続けてくれました。これは日常の訓練によって培われた、プロフェッショナリズムとしての静かな自信があってこそ生まれる気持ちなのでしょう。同時に『日本を代表してペルシャ湾にいるのだ。もしもここで自分たちが失敗すれば、自衛隊の国際貢献が日の目を見ない可能性がある』という自覚があったからです。だからこそ、188日間1件の事故もなく、常時100%の稼働率を誇れたのではないでしょうか。事故につながる可能性のある故障や不具合も、そのほぼすべてを隊員たちだけで直しただけでなく、予防整備も徹底して行なった。寝る前に自分の担当する機器をチェックするんですよ、毎日欠かさず。1日中働いてくたくたに疲れた体には、さぞ辛い作業だったと思います。隊員一人ひとりが任務に対する使命感を持っていたからこそ、そこまで頑張ってくれたのです」
 指揮官にここまで褒められる隊員たちです、ほかの国からの評価が高いのは当然の結果といえます。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成27年(西暦2015年)12月10日配信)