オリンピックと自衛隊(17)

今回も自衛隊体育学校のご紹介です。
日本陸連公認の全天候型トラック、日本水連公認のプール、総合体育館、屋内射撃場、馬術訓練場などのトレーニング施設が整備されており、競技できる場所が限られている射撃や、五種目すべてのトレーニングが一か所で行なえる近代五種などは、体育学校だからこその恵まれた環境です。
また、各種専門のトレーナーによるフィットネス、スキル、メンタル、栄養などの観点から充実したサポートが行われ、専属の医官も常駐。さらに指導陣の多くは各競技の強化委員会や日本代表ナショナルチームの指導者とあり、選手へのサポート態勢は手厚いものです。
一般企業からも声がかかったものの体育学校入校を選んだという選手の多くは、この充実した設備とサポートが決め手になったといいます。
東京オリンピックの会場となった射場は半世紀以上の年月が経ち施設の老朽化が進んでいましたが、建て替えが決定。ほかの建物への補修も始まるなど、体育学校への予算もつきやすくなりました。
その背景には、2020年のオリンピック開催地が東京に決まった直後、小野寺五典防衛大臣(当時)のかけ声により開催された「防衛省・自衛隊2020東京オリンピック・パラリンピック特別行動委員会」におけるロンドン大会メダリストたちの発言も大きく関わっています。
同年10月の第2回特別行動委員会に参加したロンドン大会のメダリストたちは、体育学校の冷房装置や老朽化したトレーニング器材などの設備的なハード面とトレーナーというソフト面での強化について、アスリートの立場から意見を述べました。それに加え、現在の体育学校施設が建設から20年以上経っているという状況も考慮し、大規模な改修が行なわれることになったのです。
予算がつきやすくなっていた、自身もスキーやテニスに親しむ小野寺大臣が体育学校や自衛官アスリートに理解があった、なども要因として大きいですが、体育学校がロンドン大会で活躍したという事実がそれらをさらに後押ししたことは間違いありません。結果を出せない組織に予算をつけにくいのは、公企業も私企業も同じです。
さて、1961年に自衛隊体育学校が設立すると、翌年にオリンピック選手育成のための第2教育課がスタートしました。
重量挙げの三宅義信選手は体育学校の第1期生です。1960年のローマ大会で銀メダルを獲得した三宅への周囲の期待は絶大なもので、大会2日目に行なわれた試合には皇太子ご夫妻(現在の天皇、皇后両陛下)も観戦に訪れています。三宅選手はすさまじい重圧を乗り越え、周囲の期待通り金メダルを獲得。
これは東京大会の日本のメダル第1号でもあり、最終競技の男子マラソンでは円谷幸吉選手が銅メダルを獲得と、オリンピックの最初と最後が自衛官アスリートのメダルで飾られる結果となりました。
同時に、体育学校からメダリストが誕生したことにより、体育学校の存在意義も確固たる盤石なものとなったのです。
東京大会からロンドン大会までの、体育学校のメダル実績は以下の通りです。
第18回東京 金1(重量挙げ)、銅1(陸上)
第19回メキシコ 金3(重量挙げ)、(レスリング×2)
第20回ミュンヘン 銀1(レスリング)
第21回モントリオール 銅1(レスリング)
第23回ロサンゼルス 金2(レスリング、射撃)、銀2(レスリング)
第24回ソウル 銀1(レスリング)
第25回バルセロナ 銅1(ライフル射撃)
第28回アテネ 銅1(レスリング)
第30回ロンドン 金2(レスリング) 銅2(レスリング、ボクシング)
1996年の第26回アトランタ大会、2000年の第27回シドニー大会では無冠に終わり、オリンピックのメダルが獲得できない8年間は、選手のみならずコーチ陣もさぞや苦しい時期だったことでしょう。
アテネでレスリングの井上謙二選手が銅メダルを獲得してくれたことで、3大会連続メダルなしという最悪の状況は回避することができました。結果を出せない選手が体育学校にいられないように、結果を出せない体育学校の前途も明るいものではありません。
こうして一覧にするとよくわかるように、ロンドン大会の好結果はここ数回のオリンピックの中でも突出しています。
その要因は、新たな指導法を取り入れたことにあります。選手の「個」を重視し、各隊員の能力や性格に合わせたきめ細やかなトレーニングメニューを作成しました。
体育学校自体も変化を恐れず、選手の能力だけでなく個性も持ち味として伸ばすという柔軟な対応に挑戦した結果が、ロサンゼルス大会以来のメダル数獲得へとつながったのです。
(つづく)
(わたなべ・ようこ)
(平成28年(西暦2016年)7月14日配信)