【第35回】 智仁勇の武人・楠木正成

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【第35回】 智仁勇の武人・楠木正成

ごあいさつ

 

 こんにちは!日本兵法研究会会長の家村です。

 

 大楠公・楠木正成こそ、我国の歴史上「最高の統率力」を発揮して、最強の軍勢を育てた人物でした。そして、その秘訣は、「人の心を見抜き、それを思いやる」能力にあったといえます。特に、苦しい立場にいる者、失意にある者、悲運ゆえに貧しき者などの弱者の気持ちを察し、深く配慮し、誰一人として見捨てることなく、「活かす道」を共に見出そうとしたのでした。

 

 それゆえ、楠木の郎従を始め、兵卒や民衆の全てが、心の底から楠木正成を慕い、尊敬し、そして自らの命を懸けて支えていこうと考えたのでした。親方様・楠木正成の為に生き、親方様と共に死す。皆が「人生意気に感じて」自発的に動く。これこそが最高の統率力の発露と云えましょう。

 

 今回は、この楠木正成の生い立ちについてご紹介いたします。それでは、本題に入りましょう。

 

 

【第35回】 智仁勇の武人・楠木正成

 

 

楠木正成の死が意味するもの

 

 (「太平記巻第十六 正成兄弟討ち死にの事」より)

 

 後醍醐天皇が笠置山で挙兵されてから鎌倉幕府が滅亡するまでの戦い(元弘の戦い)では、天皇からありがたいことにも厚く信頼され、忠義を守り通しながら大きな戦功を上げ、その功績を誇っていた者は、数えきれぬほどであった。しかし、建武中興が挫折して戦乱の世となるや、仁義を知らない者は天皇の恩を忘れて敵に従属し、武勇に自信のない者は、少しでも命を長らえようとして、逆に処刑されたりした。また、知恵のない者は、時代が移り変わりつつあるのを知らないため、正しい道を歩むことができなかった。

 

 こうした中にあって、大楠公・楠木正成のように智恵と仁愛と勇気の三つの徳を兼ね備えた人物が、死ぬことによって人として道義にかなった生き方を貫いたというのは、過去から現在に至るまで、これにまさる例を見たことも聞いたこともない。つまり、正成ほど立派な人間はいなかったのである。

 

 このように優れた人が、兄弟ともに自害しなければならなかったのは、結果として後醍醐天皇が京都を追われ、逆臣である尊氏が横暴な権威を振りかざすようになる、その前触れだったのであろう。

 

 

多聞天の申し子として生まれた正成

 

 (以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第第十六 正成兄弟討ち死にの事」より)

 

  「正成はただの人ではない」

 

  当時の人々はこのように言っていた。その理由は、父の正玄(まさすみ)が31歳まで子を持たず、母はこれを歎(なげ)いて志貴の毘沙門(びしゃもん)堂に百日詣でしたところ、ある夜に金色の鎧(よろい)を着ている人が口の中に入った夢を見て、生まれたのであるというからには、ただごとではない。

 

  「多聞天王が我が子と化されたのだ」

 

として多聞丸と名づけられた。幼かった時からたいへん賢く、気が利いており、ものを言うにも言語が明瞭であった。

 

 

勇猛果敢な幼年・少年時代

 

 6歳の頃から友達であった児童と相撲を取っていたが、12、3歳くらいの相手でも思うがままに勝つことができた。7歳になった時には、世の普通の成人男子の力量にも少し勝っていた。

 

 正玄(まさすみ)が矢尾の別当と戦うのに御供して、12歳にして戦場に出て敵一人を討ち捕ったのであった。

 

 その後は成長するにつれて学問を好んで物の意を弁(わきま)え、16歳にして矢尾の兵・数百騎を追い散らし、首を取ること17。それ以降というもの、毎回大敵をなぎ倒し、勝ちに乗らないということがなかった。

 

 矢尾との所領争いも正玄までは、ある時は矢尾別当が勝ってこれを領し、ある時は楠木が勝ってこれを領していたが、一年は領しても、三年ともたなかった。このように度々変化していたのであったが、正成が16歳にして戦に勝ってから後は、三十年に及んでその領地を別当に取られることがなかった。先祖からの領地2000余貫が、正成の時代には3700余貫になっていた。

 

 

鎌倉幕府からの信任も厚かった青年時代

 

 「東国には宇都宮公綱、西国には楠木正成あり。この両人は日本無双の弓取り(武士)である。」

 

 鎌倉幕府執権・北条高時もこのように語り、人々もそのように申していたという。これにより、西国に鎌倉幕府の敵が挙兵した時も、楠木に命じてこれを退治した。

 

 紀州の安田は、鎌倉幕府に対する最大の敵であったので、高時は正成に命じてこれを倒し、安田の所領3000貫を与えたのであった。

 

 

天皇を護るために戦って大活躍

 

 その後、後醍醐天皇に頼まれ奉りて、竜が雲に昇るかのように、一門は全部で四箇国(河内・紀伊・摂津・和泉)もの国を賜わったのである。位は従五位上となった。

 

 これも皆、正成の武勇のなせるものである。しかしながら、今(湊川の戦いがあった当時をさす)となって正成が亡んだということは、いよいよ尊氏が天下を奪うその時がすでに至ったからではないのか。

 

 今年、正成四十三歳、正氏三十二歳であった。

 

 

楠木正成は聖人か、ただの人か

 

 ある人は、楠木を評してこう語った。

 

 「多聞天王が化けて生まれたというのではないだろう。人並みはずれて気転が利いて、謀の才がある男が、書物を学んで道理に通じていたのである。しかも、勇気があって力量も人に勝れ、仁政を施した人なのである。」

 

 これに対して、ある人はこう申していたという。

 

 「それこそ多聞天王ではないか。それこそ聖人ではないか。智のない人でも、学問を好めば智者と言われるようになる。敵を払って皇室を守護し奉ったということは、つまり多聞天が帝を守護なされたということ、そのものではないか。」

 

 

(「智仁勇の武人・楠木正成」終り)

 

 

 

(いえむら・かずゆき)

 

(平成27年(皇紀2675年 西暦2015年)1月23日配信)

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