【第25回】 飯盛城攻略作戦 その1

終戦70周年記念出版 『大東亜戦争と本土決戦の真実―日本陸軍はなぜ水際撃滅(すいさいげきめつ)に帰結したのか―』(260ページ 定価1600円+税 並木書房)

【第25回】 飯盛城攻略作戦 その1

ごあいさつ

 

こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 

今回から数回にわたり、大阪平野を臨む要衝・飯盛山を攻略した楠木正成の名作戦についてご紹介いたします。

 

 この話の中には、戦わずして勝つことを狙った楠木の智謀や、敵を知り己を知るための情報活動、敵を油断させ、その意表を突いての急襲、戦場において軍法を厳守する意義など、現代にも通用する様々な実戦の教訓が描かれています。

 

 それでは、本題に入りましょう。

 

 

【第25回】 飯盛城攻略作戦 その1

 

(「太平記秘伝理尽鈔巻第第十二 安鎮国家の法事付諸大将恩賞の事」より)

 

 

旧鎌倉幕府の残党が挙兵

 

 伝えられるには、南都(奈良)の住僧である憲法僧正は、今は亡き北条高時とは従兄弟(いとこ)の関係にあった。

 

 去年(注:1333年 鎌倉幕府滅亡)、降参して討たれてしまった関東の大将たちの郎従の中でも主だった者どもが、これを無念な事だと思って、密かに集まって協議していたところ、大仏の奥州(大仏陸奥守貞直。鎌倉合戦で討死)の親類である大仏藤太(とうた)光正という名の者が申した。

 

 「今のところ、天皇方についた武士には、誰かが首領になろうとする様子もない。おそらく諸国の兵卒たちは皆、北条高時に敵対したことを後悔していることであろう。こうした時こそ、こちらに大将さえ一人おられるならば、誰がその命令に同じないことがあろうか。そうであれば、憲法僧正を取り立てて大将と仰いで、亡くなった方々の恨みを晴らすことにいたそう。」

 

 その場にいた人々は皆、「それはもっともなことだ」と云って、この僧正を還俗させ、相模の左衛門助時光と名乗らせることにして、隠密に軍勢を集めたところ、紀伊国の玉置庄司を始めとして、大和国の筒井浄春ら与(くみ)する者23人、それ以外にも関東にいる旧鎌倉幕府の余党などがあちこちからはせ集まって、軍勢1万8千余騎となった。

 

 

河内国飯盛山を占領し、河内・大和を奪う

 

 始めは大和国平群(へぐり 現在の奈良県生駒郡)という所で旗を挙げたが、兵力が強大になるにしたがって、河内国飯盛山に登ってこれを陣取り、河内・大和の両国を奪った。しかしながら、河内においては、楠木が優れた兵を所々の城に置いていたので、北条方の残党である時光勢はこれを攻めようとはしなかった。しかし、大和国の半分以上は時光勢が支配することになった。

 

 その頃、正成は京都にいたのであったが、この要衝の地である飯盛山を敵に先に取られてしまった。敵がまだ平群にいた時、その挙兵について聞いた正成は、二条の関白殿下(道平)が大将を兼ねておられたので、急いで参内して、申し上げた。

 

 「大和国の朝敵につきましては、私が出向いてこれを退治いたしましょう。今ここで、この追討を誰に命じようかなどと検討して時間をかけていては、ゆゆしき事態となりましょう。」

 

 殿下はこれをお聞きになられて、「天皇への奏聞を経なければ・・・」と仰せになりながら、月の宴・花の御会と云った行事に時が過ぎて、数日を送られたので、楠木も徒(いたずら)に数日を京都で送った。この間に敵は飯盛山に城を構築し、さらに河内へ進出したのであった。

 

 

正成、祈祷(きとう)の警固役に任命される

 

 ほどなく朝敵退治の御祈りのために大法が行われた。

 

 「楠木もこの大法の警固役である」との勅諚があったので、楠木は申した。

 

 「かしこまって承ります。ただし、御祈りの役人は別にもおられましょう。朝敵が帝都に近い所に城を構えて、万民が不安になっております。幸いにも正成が所在する国でございますれば、すぐに下向して退治いたしたく思います。もしも、御祈りの警固役をこの正成に仰せ付けられるのであれば、代わりに大和国の朝敵についても、しかるべき器量の人に討伐を仰せ付けていただきたく存じます。この二つのことを伝奏(天皇への取り次ぎ役)まで申し入れてください。」

 

 後醍醐天皇は正成がこのように申したことをお聞きになられ、

 

 「大法の御祈りの行事を終えたならば、正成がすぐに下向して退治いたせ」

 

と仰せになられたので、楠木も「これ以上は私の力ではどうすることもできない」と考えて諦めたのであった。

 

 

隠密に飯盛の敵を懐柔

 

 そうではありながら、楠木は家の子・郎従たちにいくつかの下知を与えて、賊徒が河内において略奪しないような方策を講じていたので、敵は飯盛の城にありながら、近くの郷里をも侵犯することはなかった。それはどのような策かと云えば、正成が恩地左近太郎を飯盛へ遣わして、次のように云わせたのである。

 

 「騒乱をおこすかのように兵を集め、国家を悩まされることは、謀反とは申しながら、少し引下ってその思うところを推察いたしますれば、なるほどそれなりの道理もございます。

 

 今は亡き高時入道殿は、先祖の行跡(ふるまい)とは違って、思うがままであられましたがゆえに、天下はこのようになってしまったのだと、皆様もお思いのことでしょう。先祖の怨心を鎮めんがために、今また、御旗を挙げられることは、敵ながらも感動いたします。

 

 おそらく二条関白殿下からの御討手として、私こそが参り下ることになりましょう。合戦はあくまで時の運によるものでございますれば、それを前もって申すのは難しいことです。しかし、民衆に禍(とが)はございませんので、兵糧に事を寄せて遠くの郷里で略奪されるようなことは、納得できません。諸人の恨みもいかほどになりましょうか。ですから、どうか兵糧を略奪しないよう軍勢に仰せ付けていただきたい。

 

 敵も味方も皆、世を理に適わせ、国を安らかにするためにこそ、こうしておるのでございましょう。今の状況に相応しい御用を承りましょう」

 

 そして、飯盛の敵に米100石・酒樽50荷・肴10種を贈ったのであった。

 

 

飯盛の敵軍勢、楠木の所領を侵犯せず

 

 また、正成の郎従で敵の中に知り合いがいる者は、皆これらと音信を取っていた。これに気づいた朝敵らは、

 

 「例の古狐が何事かをたくらんでいるのだろう。その使いを見つけ次第、切って捨ててしまえ」

 

などと言う者も多かったが、大将を始めとして宗徒の人々は、

 

 「いや、正成は道に違うような武略はしない男であるぞ。ただ情け深いがゆえに、また国が乱れ悩むのを悲しんでこそ、このように言ってくるのであろう。その上、元弘の戦であれほどの大忠があった楠木が、今になってこれほどまで恩賞に授かれなかったことで、内心では大君を恨んでいるのではないだろうか」

 

と云って、親しく返信をしたためたのであった。これにより、楠木の分国へはあえて侵犯することもなかったのである。

 

 何とも賢い謀であるものと、後に思い知らされたのであった。

 

 

(「飯盛城攻略作戦 その2」へ続く)

 

 

(いえむら・かずゆき)

 

(平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)11月7日配信)

メルマガ購読・解除
 


↓ ↓ 筆者・家村和幸さんの著作集です ↓ ↓

関連ページ

【第1回】桜井の別れ~最もよく統率された軍勢の姿
『楠木正成の統率力』のバックナンバーです。【第1回】桜井の別れ~最もよく統率された軍勢の姿
【第2回】兵士たちを命令に従わせるには
『楠木正成の統率力』 【第2回】兵士たちを命令に従わせるには です。
【第3回】将の道(「太平記秘伝理尽鈔巻第二 南都・北嶺行幸の事」より)
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第3回】将の道(「太平記秘伝理尽鈔巻第二 南都・北嶺行幸の事」より)です。
【第4回】勇臆・老若に応じて人を用いる
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第4回】勇臆・老若に応じて人を用いる です。
【第5回】神仏を信じるということ
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第5回】神仏を信じるということ(2014/6/20配信)です。
【第6回】恩賞の与え方と受け方
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第6回】恩賞の与え方と受け方(2014/6/27配信)です。
【第7回】敵意を解いて服属させる
『楠木正成の統率力』のバックナンバー  【第7回】敵意を解いて服属させる(2014年7月4日配信)です。
【第8回】小勢をもって多勢に勝つ
『楠木正成の統率力』のバックナンバー  【第8回】小勢をもって多勢に勝つ(2014/7/11配信)です。
【第9回】叱るよりほめよ
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第9回】叱るよりほめよ((140718配信)です。
【第10回】軍(いくさ)を心に懸ける
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第10回】軍(いくさ)を心に懸ける 2014/7/25配信 です。
【第11回】千早城外での夜討ち
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第11回】千早城外での夜討ち 平成26年(2014年)8月1日配信です。
【第12回】 敵将の短慮につけいる
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第12回】 敵将の短慮につけいる (平成26年(2014年)8月8日配信)です。
【第13回】 千早における楠木の諜報活動
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第13回】 千早における楠木の諜報活動(平成26年(2014年)8月15日配信) です。
【第14回】 物と人を備えるということ
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第14回】 物と人を備えるということ(平成26年(2014年)8月22日配信) です。
【第15回】 敵の夜討ちと返り忠を防ぐ
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第15回】 敵の夜討ちと返り忠を防ぐ (平成26年(2014年)8月29日配信) です。
【第16回】 敵の「返り忠」工作を逆手に取る
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第16回】 敵の「返り忠」工作を逆手に取る 平成26年(2014年)9月5日配信です。
【第17回】 楠木正成の『軍法六箇条』
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第17回】 楠木正成の『軍法六箇条』 平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)9月12日配信です。
【第18回】 大将は戦場を離れるな
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第18回】 大将は戦場を離れるな (平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)9月19日配信) です。
【第19回】 武家と庶民の違いは何か
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第19回】 武家と庶民の違いは何か (平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)9月26日配信)です。
【第20回】 楠木正成の初陣~攻守逆転の謀
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第20回】 楠木正成の初陣~攻守逆転の謀 (平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)10月3日配信)です。
【第21回】 千早から退却する敵を追撃
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第21回】 千早から退却する敵を追撃 (平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)10月10日配信) です。
【第22回】 急場をしのいだ楠木の智謀
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第22回】 急場をしのいだ楠木の智謀 (平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)10月17日配信)です。
【第23回】 柔を以て剛を制するの術
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第23回】 柔を以て剛を制するの術 (平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)10月24日配信)です。
【第24回】 泣き男の謀(はかりごと)
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第24回】 泣き男の謀(はかりごと) (平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)10月31日配信)です。
【第26回】 飯盛城攻略作戦 その2
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第26回】 飯盛城攻略作戦 その2 (2014/11/14 配信)です。
【第27回】 飯盛城攻略作戦 その3
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第27回】 飯盛城攻略作戦 その3 (平成26年(西暦2014年 皇紀2674年)11月21日配信)です。
【第28回】 飯盛城攻略作戦 その4
『楠木正成の統率力』のバックナンバー【第28回】 飯盛城攻略作戦 その4 (平成26年(皇紀2674年 西暦2014年)11月28日配信)です。
【第29回】 飯盛城攻略作戦 その5
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第29回】 飯盛城攻略作戦 その5 (平成26年(皇紀2674年 西暦2014年)12月5日配信)です。
【第30回】 飯盛城攻略作戦 その6
『楠木正成の統率力』のバックナンバー 【第30回】 飯盛城攻略作戦 その6 (平成26年(皇紀2674年 西暦2014年)12月12日配信)です。
【第31回】 楠木正成の領民統治
『楠木正成の統率力』のバックナンバー【第31回】 楠木正成の領民統治 (平成26年(皇紀2674年 西暦2014年)12月19日配信)です。
【第32回】 馬を盗んだ男の処断
『楠木正成の統率力』のバックナンバー【第32回】 馬を盗んだ男の処断 (平成26年(皇紀2674年 西暦2014年)12月26日配信)です。
【第33回】 志貴右衛門と湊川の戦い(前段)
『楠木正成の統率力』のバックナンバー【第33回】 志貴右衛門と湊川の戦い(前段) (平成27年(皇紀2675年 西暦2015年)1月9日配信)です。
【第34回】 志貴右衛門と湊川の戦い(後段)
『楠木正成の統率力』のバックナンバー【第34回】 志貴右衛門と湊川の戦い(後段) (平成27年(皇紀2675年 西暦2015年)1月16日配信)です。
【第35回】 智仁勇の武人・楠木正成
『楠木正成の統率力』のバックナンバー【第35回】 智仁勇の武人・楠木正成 (平成27年(皇紀2675年 西暦2015年)1月23日配信)です。
【最終回】 楠木正成の首を故郷に送る
『楠木正成の統率力』のバックナンバー【最終回】 楠木正成の首を故郷に送る (平成27年(皇紀2675年 西暦2015年)1月30日配信)です。