F-4EJ配備部隊の歴史

40年以上にわたって日本の空を守り、全機が退役となった航空自衛隊のF-4EJ、通称ファントム。今回は、F-4EJがいつ、どの部隊に配備され、そして第4世代、第5世代の戦闘機へとその場所を譲り渡していったのかという軌跡を振り返りたいと思います。

マクドネル・ダグラスF-4はアメリカで1958年に初飛行、1960年に最初の部隊運用が始まったという、60年以上もの歴史を持つ戦闘機です。世界で計約5000機が生産され、今なお数100機が現役で活躍している、第3世代の大型超音速戦闘機です。

1958年に登場した際、F-4の設計は革命的と称賛され、抜群の飛行性能を世に知らしめました。地上運用型と空母運用型の2種があり、米空軍、海軍、海兵隊が採用しました。3軍が同時に使用した機種はその後約半世紀後、F-35の登場まで現れません。

ちなみに米軍がF-4を作戦に投入したのは1991年の湾岸戦争における「砂漠の嵐作戦」が最後で、1996年に退役しています。

一方、1954年に発足した航空自衛隊が最初に入手した戦闘機はF-86F、通称セイバーで、1955年以降アメリカから供与されたほか、国内でも300機を生産しました。1982年まで27年間運用し、後継機にはF-104Jが採用されました。

これとほぼ同時期に導入が決まったのが、米空軍のF-4Eを日本向けに改修したF-4EJです。

ただ、要撃機という位置づけでありながら、ベトナム戦争で攻撃機としても能力を発揮していたため、自衛隊の「専守防衛」には無用の長物であると一部から難色を示されました。そこで核兵器制御装置、爆撃計算機、空対地ミサイル・ブルパップ制御装置、空中給油装置といった対地攻撃装備はすべて取り外し、データリンクを載せ、多用途戦闘機としての色合いを薄めて要撃戦闘機タイプにした形での導入となりました。いわばF-4の本来の強みをあえて外したわけですね。

しかも一部装備はF-4EJ改への改修の際に再び装備されました(このような他国の空軍には例のない変遷をたどった航空自衛隊のF-4EJは外国空軍から「ジャパニーズ・ファントム」と呼ばれ、後にその運用年数の長さも高じて、日本ならではの進化を遂げた機体と認識されるようになりました)。

1971年に2機を完成輸入し、続く11機を三菱重工業でノックダウン生産、127機をライセンス生産により国産としました(F-4のライセンス生産が許可されたのは日本だけです)。

装備総機数は当初104機だったが最終的には140機となり、さらに1974年には偵察機RF-4Eを14機輸入。1981年に生産終了するまでに合計154機を調達しました。

米本国でも20年以上前に退役している機種が、なぜ日本では長らく現役の戦闘機として運用できたのか。それは三菱重工によるライセンス生産で、国内での部品生産や整備が可能だったという点が大きいでしょう。もしもF-4EJ全機がすべての部品を輸入して組み建てだけを日本で行なうノックダウン生産だった場合、ここまで長期の運用は難しかったはずです。