トーチ作戦とインテリジェンス(1) by長南政義

2019年2月6日

【はじめに】
前回の連載では朝鮮戦争を素材として「情報の失敗」がどのようにして起こるかについて考察した。今回からは、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)開始までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と連合国のインテリジェンス機関とが共同実施した連合国の戦略作戦情報の役割について考察する。
主たる論点はOSS(Office of Strategic Services:戦略情報局)が、必要とされる情報をきちんと収集できたか否かにある。結論を先に述べるならば、OSSは計画立案者が要求する情報要件(information requirements)の大部分に答えることに成功したが、この成功は他のインテリジェンス機関との連携によって達成されたものであった。したがって、今回からの連載は、その意味で、「情報の成功」がどのようにして獲得されたかの考察がメインとなる。
【トーチ作戦とは】
「公式」には、トーチ作戦の作戦立案は1942年7月24日に開始された。この日、米国のフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1942年の終わりまでにフランス領北アフリカに米軍を投入することを、英国首相ウィンストン・S・チャーチルと合意したのだ。彼らが合意したこの行動方針は、リビヤと西エジプトで戦闘を展開中の英第8軍およびソ連西部地域で戦闘中のソ連軍に対するドイツ軍の圧力を緩和するために第二戦線を形成するためのものであった。
しかしながら、フランス領北アフリカにおける連合国の情報収集は、米国が1940年12月に、英国が1941年7月に、アフリカ機関(Agency Africa)と名付けられたポーランド主導のインテリジェンス機関を通じて、すでに開始されていたのである。筆者は先に、トーチ作戦の作戦立案が1942年7月24日に開始され、実際の作戦実施が1942年11月8日であると説明したが、想像してもわかるように、米国本土から遠く離れた場所での水陸両用作戦の作戦立案が、わずか3か月でなされるはずはないのだ。
英米両首脳が作戦実施に合意した陰には、トーチ作戦実施に先立つ18か月の間、作戦に必要とされる情報を収集した米国・フランス・ポーランド人の活躍があったのである。中でも特に、四周をドイツやソ連(帝政ロシア)といった強国に囲まれていたためインテリジェンス機関が発達していたポーランドのエージェントの活躍は特筆に値するものがあった。
欧米の研究者の間では、トーチ作戦においてOSSの果たした役割について多くの批判が存在する。その批判は、連合国の北アフリカ侵攻作戦に先行してフランス領北アフリカに潜入し情報収集に従事することを志願した情報要員の能力と実績に対する非難に向けられている。多くの研究者が指摘しているように北アフリカに派遣された情報要員は全くの素人であった。しかしながら、OSSの活動は、米国人らしい独創性を通じて、第二次世界大戦における多くのスパイ活動と同様に、意図した目的を達成したという点では作戦的成功を収めて終了した。
上陸作戦実施前に展開されるアドバンス・フォース・オペレーション(Advance force operations:AFO 敵地奥深くに潜入し情報収集や破壊工作などを実行する作戦)や情報収集は栄光に満ちたものでもなければ華々しいものでもない。OSSの創設者であるウィリアム・ドノヴァン大佐と同様に、ルーズヴェルト大統領もチャーチル首相もこの点を理解していた。フランス領北アフリカへの侵攻作戦はOSSが実施した最初のAFOであった。
冒頭で述べたように、本稿のテーマは、OSS(およびその前身であるOCI:情報調整局)がフランス領北アフリカに対する侵攻作戦の成功を確実なものとするために、そのAFO任務を達成できたか否かにあるが、OSSは作戦計画立案及び作戦実施に必要な情報を提供することには成功した。しかしながら、その成功は連合国の成功を確実なものにしようとする複数のインテリジェンス機関同士の努力の結晶でもあったのである。
【トーチ作戦の2年前から開始されたAFO】
 1942年11月8日、米国陸軍・海軍は、第二次世界大戦期間中、米軍にとり初めてとなる欧州戦域での連合水陸両用作戦を実施した。この作戦は米国最古の友邦であり中立を宣言していた国家に対してなされたものであった。
しかしながら、上陸作戦そのものはインテリジェンスをめぐるドラマにとっては最終段階に過ぎなかった。というのも、インテリジェンスに関する活動はトーチ作戦から遡ること約二年前に情報収集とAFOを実行した数名の男たちにより開始されていたのであった。これらの男たちが上陸作戦に先だって北アフリカにおける作戦の基礎を作ったのである。
【外交官ロバート・ダニエル・マーフィーの活躍】
この作戦の初期、彼らを率いたのが国務省の外交官ロバート・ダニエル・マーフィーであった。第二次大戦後に駐日大使を務めたのでその名前をご存知の読者もいるかもしれない。彼は、1917年、スイスのベルンにある米国公使館で外交官としての経歴をスタートさせ、チューリッヒ副領事やミュンヘン副領事、パリ総領事などを歴任後、ヴィシー政権下で米国代理公使を務めた。ここからマーフィーの大戦下欧州における活躍が始まる。
1942年の秋、マーフィーは、ルーズヴェルト大統領の密命を受け、個人使節としてヴィシー政権の支配するフランス領北アフリカに赴き、連合国が計画していたトーチ作戦のための下準備を行った。マーフィーはアルジェリアに駐屯するフランス軍関係者と接触し、連合国の上陸作戦に協力を取り付けたのだ。
マーフィーの活動の中でも特筆すべきは、1942年11月8日、マーフィーが、米国陸軍のマーク・クラーク将軍と共に、イギリスに対して批判的な見解を持つフランス陸軍のアンリ・ジロー将軍を説得し、連合国側に協力させたことである。
第二次世界大戦後、マーフィーは、駐ベルギー大使や駐日大使などを務めた後、アイゼンハワー政権下で国連担当次官補や政治担当次官を務め、1858年には大統領の個人使節としてレバノン危機解決のために奔走するなどし、1959年に外交官を引退した。マーフィーは、米国では記念切手にもなっており、米国国内では成功した外交官として知られている。
【米国をめぐる国際環境
  ~孤立主義が米国のインテリジェンス機関に与えたダメージ~】

1941年に第二次世界大戦に参戦した当時の米国は、ほとんどの政府機関が戦争のための準備を万全なものとしていなかった。その原因は、米国が第二次世界大戦参戦までとっていた孤立主義政策にある。
米国の孤立主義で有名なのは、米国の第五代大統領ジェームズ・モンローが1823年に米国議会で行った演説で表明したモンロー主義である。モンロー主義とは、米国が欧州諸国に対して、米国大陸と欧州大陸間の相互不干渉を提唱したことであるが、米国の孤立主義の淵源は初代大統領ジョージ・ワシントンの離任に際しての告別演説にまでさかのぼることができる。ワシントンが「世界のいずれの国家とも永久的同盟を結ばずにいくことこそ、我々の真の国策である」と述べたのがそれだ。
時代は下り、第一次大戦後、ウッドロウ・ウィルソン大統領の下で、米国は一時的に積極的に国際関係にコミットしようとする動きを示したが、米国議会が国際連盟の加盟を否決するなど、米国国内で国民の支持が得られず、ウィルソンの外交構想が挫折したのは有名な話だ。
1939年9月、ドイツ軍によるポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まったが、大戦が始まっても孤立主義への支持は根強いものがあり、米国が参戦したのは、1941年12月に日本海軍が真珠湾を攻撃した後のことであった。
しかし、この長い孤立主義の時代は、米国政府機関に多くの損失を与えていた。特に、孤立主義が米国のインテリジェンス機関に与えたダメージは大きなものがあった。米国のインテリジェンス機関は、たいていの欧州主要国のそれと比較して、能力の面でも、人員の質の面でも、世界で発生する事件に対する情報収集・分析能力の面でも後れをとっていたのである。
しかし、これから本連載で述べる、トーチ作戦の計画立案・作戦準備・作戦遂行のためにOSSが行った情報収集・分析支援活動は、第二次世界大戦の残りの期間および大戦終結後から現代まで続く、米国が他国に対して持つことになるインテリジェンス面での優位の基礎を形成したのである。
次回は、ドイツや英国などのトーチ作戦関係国の国際関係から筆を進めることとする。
(以下次号)
(長南政義)