朝鮮戦争における「情報の失敗」 ~1950年11月、国連軍の敗北~(9)
1918年当時のウィロビー□前回までのあらすじ
朝鮮戦争勃発初期のウィロビーの情報分析は、中国が満州で軍事的即応性を向上させつつあることを認識している内容であった。
1950年7月3日までに、ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部(G2:情報部)は、「中国が2個騎兵師団と4個軍(12万人)を満州に駐屯させている」と報告していた。
9月2日付の情報日報(DIS:Daily Intelligence Summaries)は、人民解放軍4個軍が「すでに」北朝鮮領に入っているという8月29日付の「誤った」報告を強調する内容であった。人民解放軍の大規模な介入を誤って報告したことは、極東軍司令部参謀第2部の情報分析の信頼性を低下させてしまった。
ウィロビーは、著書『Macarthur:1941-1951』の中で、8月27日に台湾の国民党が、中国共産党が朝鮮戦争に介入するつもりであるとの警告を出していたと明言している。
また、ジェームズ・シュナーベルの研究によれば、9月中旬の仁川上陸作戦の成功の直後、「ウィロビーは、45万人の中国軍が満州に集結していたと推測していた」と指摘している。9月中旬の時点で、ウィロビーは、中国が鴨緑江における国連軍のプレゼンスを「中国共産党体制に対する重大な脅威」として認識し、彼が作成した報告書の中にもそのように記述していた。
この時点におけるウィロビーの報告書は、中国側指導者の視点や価値観から中国の意図・目的を正確に分析する内容であった。それでは、ウィロビーがマッカーサーの作戦案を支持するために情報評価を偏向させるようになるのはいつの時点からなのであろうか。そして彼が転向した理由とは何であったのだろうか。
▼情報日報に見るウィロビーの正確な対中認識
多くの報告書が人民解放軍部隊の中朝国境地域への展開を明言しており、そのことが複数の情報源から確認されていたにもかかわらず、ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部による人民解放軍の情勢分析はかなり動揺していた。
分析が首尾一貫しなかったことは、極東軍司令部参謀第2部の分析結果に対する信頼性を低下させただけでなく、中国側の意図を正確に分析評価する能力に対するウィロビー自身の自信も喪失させた。
1950年9月末までに、満州に展開する中国軍部隊が軍事能力を増強しているという中国軍の「能力」の点に関しては、東京の極東軍司令部もワシントンの政府筋も疑ってはいなかったが、中国政府が満州で増強中の部隊を使用して「何を」行うつもりであるのかという中国政府の「意図」に関しては、多くの議論が存在した。
中国共産党が朝鮮半島で進展中の事態に対する即応性を向上させつつあるという多くの報告が東京の極東軍司令部やワシントンの政府首脳に上げられていたが、中国が「すでに」北朝鮮領内に展開しているのか否かという点に関しては情報内容が矛盾しあっており不確実であった。
国連軍が38度線を越える進撃を準備するにあたって、この不確実さが極東軍司令部参謀第2部をして中国共産党の意図を正確に予測させることを困難なものにした。9月30日の情報日報のなかで、ウィロビーは、中国政府指導部は8月14日の会議で朝鮮半島における作戦活動に25万人の部隊を投入する決断を下した、と報告していた。
恐らくこの情報は、これまでも中国本土の情報源から様々な報告をもたらしていた台湾の国民党国防部を情報源としていた可能性が高い。そのわずか数日後の10月2日、ウィロビーの部下の情報分析官たちは、人民解放軍20個師団が北朝鮮領内に侵入しており、これらの部隊は国連軍の仁川上陸以前の9月10日から北朝鮮領内に侵入していたことを示す複数の証拠があると報告した。
10月3日に出された極東軍司令部参謀第2部の情報日報(DIS:Daily Intelligence Summaries)は、中国政府の指導者が発した好戦的な論調を帯びた発言を引用していた。ウィロビーは、この情報日報の中で、9月30日に発せられた周恩来の警告に関し、「たとえその発言がプロパガンダの類であったとしても、そのような発言が中国政府の責任ある指導者から発せられたがゆえに、そうした発言を完全に無視することはできない」と述べている。
1950年10月第1週におけるウィロビーの分析は、ウィロビーが中国の能力および、毛沢東や周恩来が発する声明が持つ意味を理解していたことを示している。10月5日までに極東軍司令部参謀第2部は、その報告書の中で、人民解放軍9個師団が北朝鮮に現存し、中国軍の活動に関する今後の報告は「不吉な意味合い」を持つ可能性が高いことを強調した上で、もし国連軍が38度線を越えたならば中国が朝鮮半島での戦争に介入してくるだろうと結論づけていた。
だが、予測分析の正確性と対照的に、北朝鮮に展開している人民解放軍の師団数が10月2日付報告書の20個師団から、わずか3日後に9個に減少したことは、極東軍司令部参謀第2部が作成した報告書が矛盾しあって信頼できないことを示していると共に、ウィロビーの情報源の正確度について疑問を生じさせることになった。
10月5日、極東軍司令部参謀第2部はその第一優先情報要求(定訳がないので仮訳:primary intelligence requirement)に「ソ連の衛星国中国による増強」というタイトルをつけている。しかしながら、ここまで慎重であったウィロビーの対中認識はこれ以後大きく変化する。中国軍が待ち受ける罠に向って進撃する運命にある米第8軍および第10軍団の将兵にとって不幸なことに、ウィロビーがこれ以後の数週間に作成した報告書は中国が朝鮮戦争に参戦する可能性が持つ意味を軽視する内容のものへと変化していくことになったのだ。
▼ウィロビーの「転向」
極東軍司令部参謀第2部が9月末から10月初旬における満州での中国軍の増強について不吉なトーンで述べていたにもかかわらず、ウィロビーは前線から上がってくる報告書を意図的に信用しないようと試みた。米第8軍の釜山橋頭堡からの突破作戦と結合したマッカーサーの仁川上陸作戦(9月15日)の成功が9月末までに朝鮮戦争の性格を急速に変化させた。10月1日に国連軍が北朝鮮軍を追撃し38度線を越えた時、中国が戦争に介入する徴候がますます増加したにもかかわらず、中国共産党が戦争に介入する意図を持っているということは極東軍司令部参謀第2部の分析から意図的に除外されるようになった。
10月第一週の時点でのウィロビーの第一優先情報要求は「ソ連の衛星国中国による増強」であったが、10月13日までにこの要求は第3番目の優先順位に降格した。それから2日後の10月15日、ウエーク島でトルーマン大統領とマッカーサーは会談した。ウエーク島会談において、トルーマン大統領および彼の外交政策の補佐官たちが中国の好戦的な声明に対する意見を直接マッカーサーに質問した後になり、ウィロビーは中国政府による軍事力増強問題を第一優先順位に再度引き上げた。
国連軍が北朝鮮領内を進撃するにつれ、国連軍に危険が迫っている徴候は増加し続けた。10月7日付の情報日報において、ウィロビーはある米軍将校による報告を引用している。
この将校は北朝鮮軍の捕虜になっていたところ運良く逃亡に成功したのであったが、拘束されていた時に3人のソ連軍将校から尋問されたという。真偽のほどは定かではないものの、これらのソ連人将校たちは、彼に向かって、もし米軍が38度線を越えたならば、「新たな共産主義者の軍隊が北朝鮮を支援するために参戦するだろう」と述べたという。
わずか4日前に、周恩来が在中インド大使のパニッカルに対し、もし米軍が38度線の北側に進出したならば中国はこの戦争に介入するであろうと述べたばかりであったことを考えると、この米軍将校の発言は重要な意味を持っていたといえる。
戦争捕虜であった米軍将校の証言は、マッカーサーの鴨緑江へ向かう進撃計画が朝鮮戦争の戦略的性格を不吉な方向に一変させる恐れがあることを示す徴候の1つとして使用されるべきであった。
人民解放軍部隊の移動や満州の軍事インフラの改善に関する報告は10月第2週になっても続々と極東軍司令部にあげられていた。しかしながら、10月8日から14日までの間に極東軍司令部参謀第2部により出された情報分析報告は前線からあげられてくる報告を無視し、北朝鮮国内に人民解放軍部隊が存在する「確実な証拠は存在しない」と結論づけていた。ウィロビーは、周恩来による警告を「恐らく外交的脅迫の類」であろうとみなしていた。
さらに、ウィロビーは、10月14日付の情報日報で「もし決定が存在するとしてもインテリジェンスの範囲外のものである。というのも開戦の決断は最高レベルの問題であるからだ」と述べることにより、さらなる判断を回避した。この情報日報では人民解放軍所属の24個師団が鴨緑江の渡河点で渡河の準備態勢にあるという見積りも述べられていた。
まさに、この瞬間、ウィロビーは、満州における中国の脅威の増加を正確に警告していた過去の自分から「転向」して、中国指導部により繰り返される米国に対する警告や朝鮮半島の前線から上がってくる報告を「意図的に」無視するようになったのである。
そして、「極東における危機的状況」というタイトルが付けられた10月12日付のCIAによる国家情報見積(NIE:National Intelligence Estimate)は、中国共産党は朝鮮戦争に参戦する決定的チャンスを見逃してしまったというウィロビーの意見を反映し、「軍事的観点からすると、朝鮮半島に介入する最良の時は過ぎ去った」と指摘していた。
▼ウエーク島会談 ~ウィロビーはなぜ転向したのか?~
10月15日、ウィロビーとマッカーサーは、トルーマン大統領および彼の上級補佐官たちと会談するためにウエーク島に飛んだ。マッカーサーの目的は鴨緑江へ向け進撃することにより朝鮮戦争を迅速に終結させるという彼の計画をトルーマン大統領に説明して承認を得ることにあった。中国の脅威分析に関してウィロビーが「転向」した時期は、ウエーク島会談の時期とほぼ一致している。中国の朝鮮戦争への介入を否定する以外の内容を持った情報分析はマッカーサーの計画をダメにしてしまう恐れがあった。
そのため、マッカーサーに心酔するウィロビーは、北朝鮮領内の奥深くへ向かう国連軍の前進がいかに人民解放軍の後方連絡線を短縮させ作戦展開をやりやすくさせるか(ということは国連軍のそれは延長し、作戦は困難なものになる)や、鴨緑江へ進撃する際にマッカーサーが直面するであろう北朝鮮の険しい地形や天候面での難問を指摘することを回避した。言葉を変えるならば、ウィロビーは情報分析官の務めである、鴨緑江へ向かう進撃以外の「別の選択肢」を提示することを敢えて回避したのである。
中国共産党からの警告に留意せよという9月下旬の正確な情報分析から中国軽視へとウィロビーが「転向」した背景には、この当時の国連軍が朝鮮半島で経験している北朝鮮軍に対する圧倒的大勝利に影響されたという点の他に、戦争の早期終結を希望するワシントンからの圧力が高まっていたことも存在した。すなわち、ウィロビーが情報分析に失敗した理由には、ウィロビー個人に由来する問題の他に、「情報の政治化」と呼ばれる現象も存在したのである。
そして、これから先の数週間、中国が参戦することを示す複数の徴候に直面していたにもかかわらず、ウィロビーは中国の朝鮮戦争介入意図を否定し続けることとなる。
(以下次号)
(長南政義)
朝鮮戦争勃発初期のウィロビーの情報分析は、中国が満州で軍事的即応性を向上させつつあることを認識している内容であった。
1950年7月3日までに、ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部(G2:情報部)は、「中国が2個騎兵師団と4個軍(12万人)を満州に駐屯させている」と報告していた。
9月2日付の情報日報(DIS:Daily Intelligence Summaries)は、人民解放軍4個軍が「すでに」北朝鮮領に入っているという8月29日付の「誤った」報告を強調する内容であった。人民解放軍の大規模な介入を誤って報告したことは、極東軍司令部参謀第2部の情報分析の信頼性を低下させてしまった。
ウィロビーは、著書『Macarthur:1941-1951』の中で、8月27日に台湾の国民党が、中国共産党が朝鮮戦争に介入するつもりであるとの警告を出していたと明言している。
また、ジェームズ・シュナーベルの研究によれば、9月中旬の仁川上陸作戦の成功の直後、「ウィロビーは、45万人の中国軍が満州に集結していたと推測していた」と指摘している。9月中旬の時点で、ウィロビーは、中国が鴨緑江における国連軍のプレゼンスを「中国共産党体制に対する重大な脅威」として認識し、彼が作成した報告書の中にもそのように記述していた。
この時点におけるウィロビーの報告書は、中国側指導者の視点や価値観から中国の意図・目的を正確に分析する内容であった。それでは、ウィロビーがマッカーサーの作戦案を支持するために情報評価を偏向させるようになるのはいつの時点からなのであろうか。そして彼が転向した理由とは何であったのだろうか。
▼情報日報に見るウィロビーの正確な対中認識
多くの報告書が人民解放軍部隊の中朝国境地域への展開を明言しており、そのことが複数の情報源から確認されていたにもかかわらず、ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第2部による人民解放軍の情勢分析はかなり動揺していた。
分析が首尾一貫しなかったことは、極東軍司令部参謀第2部の分析結果に対する信頼性を低下させただけでなく、中国側の意図を正確に分析評価する能力に対するウィロビー自身の自信も喪失させた。
1950年9月末までに、満州に展開する中国軍部隊が軍事能力を増強しているという中国軍の「能力」の点に関しては、東京の極東軍司令部もワシントンの政府筋も疑ってはいなかったが、中国政府が満州で増強中の部隊を使用して「何を」行うつもりであるのかという中国政府の「意図」に関しては、多くの議論が存在した。
中国共産党が朝鮮半島で進展中の事態に対する即応性を向上させつつあるという多くの報告が東京の極東軍司令部やワシントンの政府首脳に上げられていたが、中国が「すでに」北朝鮮領内に展開しているのか否かという点に関しては情報内容が矛盾しあっており不確実であった。
国連軍が38度線を越える進撃を準備するにあたって、この不確実さが極東軍司令部参謀第2部をして中国共産党の意図を正確に予測させることを困難なものにした。9月30日の情報日報のなかで、ウィロビーは、中国政府指導部は8月14日の会議で朝鮮半島における作戦活動に25万人の部隊を投入する決断を下した、と報告していた。
恐らくこの情報は、これまでも中国本土の情報源から様々な報告をもたらしていた台湾の国民党国防部を情報源としていた可能性が高い。そのわずか数日後の10月2日、ウィロビーの部下の情報分析官たちは、人民解放軍20個師団が北朝鮮領内に侵入しており、これらの部隊は国連軍の仁川上陸以前の9月10日から北朝鮮領内に侵入していたことを示す複数の証拠があると報告した。
10月3日に出された極東軍司令部参謀第2部の情報日報(DIS:Daily Intelligence Summaries)は、中国政府の指導者が発した好戦的な論調を帯びた発言を引用していた。ウィロビーは、この情報日報の中で、9月30日に発せられた周恩来の警告に関し、「たとえその発言がプロパガンダの類であったとしても、そのような発言が中国政府の責任ある指導者から発せられたがゆえに、そうした発言を完全に無視することはできない」と述べている。
1950年10月第1週におけるウィロビーの分析は、ウィロビーが中国の能力および、毛沢東や周恩来が発する声明が持つ意味を理解していたことを示している。10月5日までに極東軍司令部参謀第2部は、その報告書の中で、人民解放軍9個師団が北朝鮮に現存し、中国軍の活動に関する今後の報告は「不吉な意味合い」を持つ可能性が高いことを強調した上で、もし国連軍が38度線を越えたならば中国が朝鮮半島での戦争に介入してくるだろうと結論づけていた。
だが、予測分析の正確性と対照的に、北朝鮮に展開している人民解放軍の師団数が10月2日付報告書の20個師団から、わずか3日後に9個に減少したことは、極東軍司令部参謀第2部が作成した報告書が矛盾しあって信頼できないことを示していると共に、ウィロビーの情報源の正確度について疑問を生じさせることになった。
10月5日、極東軍司令部参謀第2部はその第一優先情報要求(定訳がないので仮訳:primary intelligence requirement)に「ソ連の衛星国中国による増強」というタイトルをつけている。しかしながら、ここまで慎重であったウィロビーの対中認識はこれ以後大きく変化する。中国軍が待ち受ける罠に向って進撃する運命にある米第8軍および第10軍団の将兵にとって不幸なことに、ウィロビーがこれ以後の数週間に作成した報告書は中国が朝鮮戦争に参戦する可能性が持つ意味を軽視する内容のものへと変化していくことになったのだ。
▼ウィロビーの「転向」
極東軍司令部参謀第2部が9月末から10月初旬における満州での中国軍の増強について不吉なトーンで述べていたにもかかわらず、ウィロビーは前線から上がってくる報告書を意図的に信用しないようと試みた。米第8軍の釜山橋頭堡からの突破作戦と結合したマッカーサーの仁川上陸作戦(9月15日)の成功が9月末までに朝鮮戦争の性格を急速に変化させた。10月1日に国連軍が北朝鮮軍を追撃し38度線を越えた時、中国が戦争に介入する徴候がますます増加したにもかかわらず、中国共産党が戦争に介入する意図を持っているということは極東軍司令部参謀第2部の分析から意図的に除外されるようになった。
10月第一週の時点でのウィロビーの第一優先情報要求は「ソ連の衛星国中国による増強」であったが、10月13日までにこの要求は第3番目の優先順位に降格した。それから2日後の10月15日、ウエーク島でトルーマン大統領とマッカーサーは会談した。ウエーク島会談において、トルーマン大統領および彼の外交政策の補佐官たちが中国の好戦的な声明に対する意見を直接マッカーサーに質問した後になり、ウィロビーは中国政府による軍事力増強問題を第一優先順位に再度引き上げた。
国連軍が北朝鮮領内を進撃するにつれ、国連軍に危険が迫っている徴候は増加し続けた。10月7日付の情報日報において、ウィロビーはある米軍将校による報告を引用している。
この将校は北朝鮮軍の捕虜になっていたところ運良く逃亡に成功したのであったが、拘束されていた時に3人のソ連軍将校から尋問されたという。真偽のほどは定かではないものの、これらのソ連人将校たちは、彼に向かって、もし米軍が38度線を越えたならば、「新たな共産主義者の軍隊が北朝鮮を支援するために参戦するだろう」と述べたという。
わずか4日前に、周恩来が在中インド大使のパニッカルに対し、もし米軍が38度線の北側に進出したならば中国はこの戦争に介入するであろうと述べたばかりであったことを考えると、この米軍将校の発言は重要な意味を持っていたといえる。
戦争捕虜であった米軍将校の証言は、マッカーサーの鴨緑江へ向かう進撃計画が朝鮮戦争の戦略的性格を不吉な方向に一変させる恐れがあることを示す徴候の1つとして使用されるべきであった。
人民解放軍部隊の移動や満州の軍事インフラの改善に関する報告は10月第2週になっても続々と極東軍司令部にあげられていた。しかしながら、10月8日から14日までの間に極東軍司令部参謀第2部により出された情報分析報告は前線からあげられてくる報告を無視し、北朝鮮国内に人民解放軍部隊が存在する「確実な証拠は存在しない」と結論づけていた。ウィロビーは、周恩来による警告を「恐らく外交的脅迫の類」であろうとみなしていた。
さらに、ウィロビーは、10月14日付の情報日報で「もし決定が存在するとしてもインテリジェンスの範囲外のものである。というのも開戦の決断は最高レベルの問題であるからだ」と述べることにより、さらなる判断を回避した。この情報日報では人民解放軍所属の24個師団が鴨緑江の渡河点で渡河の準備態勢にあるという見積りも述べられていた。
まさに、この瞬間、ウィロビーは、満州における中国の脅威の増加を正確に警告していた過去の自分から「転向」して、中国指導部により繰り返される米国に対する警告や朝鮮半島の前線から上がってくる報告を「意図的に」無視するようになったのである。
そして、「極東における危機的状況」というタイトルが付けられた10月12日付のCIAによる国家情報見積(NIE:National Intelligence Estimate)は、中国共産党は朝鮮戦争に参戦する決定的チャンスを見逃してしまったというウィロビーの意見を反映し、「軍事的観点からすると、朝鮮半島に介入する最良の時は過ぎ去った」と指摘していた。
▼ウエーク島会談 ~ウィロビーはなぜ転向したのか?~
10月15日、ウィロビーとマッカーサーは、トルーマン大統領および彼の上級補佐官たちと会談するためにウエーク島に飛んだ。マッカーサーの目的は鴨緑江へ向け進撃することにより朝鮮戦争を迅速に終結させるという彼の計画をトルーマン大統領に説明して承認を得ることにあった。中国の脅威分析に関してウィロビーが「転向」した時期は、ウエーク島会談の時期とほぼ一致している。中国の朝鮮戦争への介入を否定する以外の内容を持った情報分析はマッカーサーの計画をダメにしてしまう恐れがあった。
そのため、マッカーサーに心酔するウィロビーは、北朝鮮領内の奥深くへ向かう国連軍の前進がいかに人民解放軍の後方連絡線を短縮させ作戦展開をやりやすくさせるか(ということは国連軍のそれは延長し、作戦は困難なものになる)や、鴨緑江へ進撃する際にマッカーサーが直面するであろう北朝鮮の険しい地形や天候面での難問を指摘することを回避した。言葉を変えるならば、ウィロビーは情報分析官の務めである、鴨緑江へ向かう進撃以外の「別の選択肢」を提示することを敢えて回避したのである。
中国共産党からの警告に留意せよという9月下旬の正確な情報分析から中国軽視へとウィロビーが「転向」した背景には、この当時の国連軍が朝鮮半島で経験している北朝鮮軍に対する圧倒的大勝利に影響されたという点の他に、戦争の早期終結を希望するワシントンからの圧力が高まっていたことも存在した。すなわち、ウィロビーが情報分析に失敗した理由には、ウィロビー個人に由来する問題の他に、「情報の政治化」と呼ばれる現象も存在したのである。
そして、これから先の数週間、中国が参戦することを示す複数の徴候に直面していたにもかかわらず、ウィロビーは中国の朝鮮戦争介入意図を否定し続けることとなる。
(以下次号)
(長南政義)