陸上自衛隊第5旅団
旅団司令部を置く帯広駐屯地にて開催された「第5旅団創立7周年 帯広駐屯地創設60周年 創立記念行事」(平成23年9月3日)より、記念式典、観閲行進 及び、雨の中で展開された戦車、装甲車、火砲、対戦車ヘリコプター等による迫力の訓練展示の模様等を お送りします。
第5旅団は、北部方面総監の隷下にあり、帯広に司令部を置く。道東の防衛警備を担任するとともに、他方面隊への増援、国際貢献活動等幅広い任務を担任する。
第5旅団の編成
第5旅団は、中核となる旅団長と旅団司令部(帯広)、司令部付隊(帯広)及び以下の指揮隷下部隊が、帯広・鹿追・釧路・美幌・別海の5個駐屯地、足寄・標津の2個分屯地に展開する。
帯広駐屯地:第4普通科(歩兵)連隊、第5特科(砲兵)隊、高射特科(高射砲兵)第5中隊、第5通信隊、第5後方支援(輜重)隊、第5施設(工兵)隊、第5飛行隊、第5音楽隊
美幌駐屯地:第6普通科(歩兵)連隊、第101特科(砲兵)大隊、業務諸隊
釧路駐屯地:第27普通科(歩兵)連隊、第342施設(工兵)中隊、業務諸隊
鹿追駐屯地:第5戦車大隊、業務諸隊
別海駐屯地:第5偵察隊、第27普通科(歩兵)連隊第3中隊、業務諸隊
足寄分屯地:足寄弾薬支処
標津分屯地:第302沿岸監視隊
旅団の略歴
2004年3月29日:師団から旅団に改編
2011年3月:総合近代化旅団へ改編
【参考】
帝国陸軍で北海道の防衛警備を担当したのは、旭川7師団であった。
帝国陸軍第5師団は、明治6年(1873年)に設置された広島鎮台を母体に1888年(明治21年)5月14日に編成された。編成地は広島。島根・広島・山口出身の兵隊で編成された師団である。
明治27年(1894年)7月の日清戦争では、大島義昌少将指揮の大島旅団が、最初に現地に投入された。大島旅団は京城南方で清国軍と交戦し、僅か1日で決着がつきわが軍は勝利をおさめた。この戦いこそ、建軍してはじめてわが軍部隊が外国軍と交戦したものである。旅団はこの後平壌攻略戦・鴨緑江渡河作戦・牛荘の戦いに参加した。
北清事変では義和団鎮圧に出動し、8か国連合軍の中核となった。日露戦争では沙河会戦・奉天会戦に参加し、明治44年(1911年)から2年間、満州駐剳を命ぜられ、大正8年(1919年)にシベリア出兵に参加する。
昭和12年(1937年)日中戦争勃発後、7月27日に支那駐屯軍隷下となり華北に出動。8月31日に支那駐屯軍が廃止され北支那方面軍が新設されると北支那方面軍直轄師団としてチャハル作戦・太原攻略戦に参戦した。昭和13年(1938年)3月30日第2軍に編入され徐州会戦を、同年9月19日には第21軍に編入され華南に転じ広東作戦を戦い、11月29日に第12軍隷下となり華北に戻る。さらに翌昭和14年(1939年)10月16日にはふたたび華南の第21軍隷下となった。1940年(昭和15年)2月9日には第21軍の廃止後に新設された第22軍に編入され、北部仏印進駐を担当した。
大東亜戦争開戦前の1940年(昭和15年)10月12日に大本営直轄となる。第5飛行集団とともに九州での上陸作戦演習に参加するなどの上陸訓練の後、昭和16年(1941年)11月6日山下奉文中将率いる第25軍に編入、南方作戦に投入された。12月8日の開戦とともにイギリス領マラヤに向けタイ領のシンゴラとバタニから上陸し、翌昭和17年(1942年)1月11日にクアラルンプールを占領、さらにシンガポール攻略の主力となった。
昭和18年(1943年)1月に師団は第19軍隷下となる。昭和20年(1945年)2月28日の第19軍廃止後は第2軍隷下となった。
大戦後半は地上戦に参加する機会はなく、島嶼防衛用の海洋編制師団への改編途上、セラム島で終戦を迎えた。