陸上自衛隊第7機甲師団


第7機甲師団は、北部方面総監の隷下にあり、北海道千歳市に司令部を置く。わが国唯一の戦車を中核に編成された機甲師団である。
編成
師団は、中核となる師団長と師団司令部(東千歳)、師団司令部付隊(東千歳)(*)及び以下の部隊が、東千歳、北千歳、北恵庭、南恵庭、静内、丘珠の6駐屯地に展開している。
(*1)司令部の管理及び業務支援を任務とする旗本部隊。
北千歳第71戦車連隊、北恵庭第72戦車連隊、南恵庭第73戦車連隊、東千歳第11普通科(歩兵)連隊、東千歳第7偵察隊、東千歳第7特科(砲兵)連隊、静内第7高射特科(高射砲兵)連隊(6個高射中隊基幹)、東千歳第7飛行隊、東千歳施設(工兵)第7大隊、東千歳第7後方支援(輜重)連隊、東千歳通信第7大隊、東千歳第7化学防護隊、東千歳第7音楽隊
任務
有事に即応できる精強部隊の練成と即応態勢の維持及び師団警備地区内の防衛、警備、災害派遣、民生協力。
特性
3個戦車連隊を中核に編成された機動打撃部隊。戦車戦力(3コ戦車連隊)を主体とした陸自唯一の機甲師団であり、最大の重戦力を保有する方面隊の機動打撃の骨幹。また、警備地区は北海道の1/8の面積であり、新千歳空港、室蘭・苫小牧港、石油備蓄基地等、北海道の主要な交通・生活基盤の警備を担任する師団でもある。
【参考】
帝国陸軍で北海道の防衛警備を担当したのは、旭川7師団であった。
帝国陸軍第7師団は、北海道に置かれた常備師団として北辺の守りを担う重要師団であり、道民は畏敬の念を多分に含め、「北鎮部隊」と呼んでいた。
鎮台を母体に編成された内地の常設師団とは異なり、北海道の開拓と防衛を兼ねて1885年(明治18年)に設置された屯田兵を母体とし、1896年(明治29年)5月12日に編成された。補充担任は旭川師管区で、北海道内を旭川連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・釧路連隊区と4つに分けて徴募に当たり、北海道の兵士で構成される建前であるが、北海道は人口が希薄であったために1万人の兵力は捻出できず、実際には東北地方出身の兵も加えられた。
もとは4個歩兵連隊を基幹戦力とした4単位師団であったが、1940年(昭和15年)に編制が改正され、歩兵第25連隊(札幌)を樺太混成旅団に転出して3単位師団となった。
沿革
1904年(明治37年)、日露戦争に出征(師団長:大迫尚道陸軍中将)し、旅順攻略戦・奉天会戦に参加する。
1917年(大正6年)から2年間は満州に駐屯し、シベリア出兵に参加。
1934年(昭和9年)と1936年(昭和11年)にも満州に派遣された。
1938年(昭和13年)2月に関東軍の指揮下に入り満州に派遣され、7月に張鼓峰事件が起きて出動するが師団の交戦前に終結した。
1939年(昭和14年)のノモンハン事件では、6月に師団の一部が第23師団に配属されて出動しソ連軍と交戦、師団主力も増援部隊として9月までに逐次動員された。圧倒的なソ連軍機甲部隊に対し、ガソリン瓶で抵抗した須見新一郎連隊長率いる歩兵第26連隊の奮戦ぶりは語り草となっている。しかし、第7師団は北辺の守りを担う重要師団であることから、翌1940年(昭和15年)に北海道に帰還した。
1942年(昭和17年)に一木支隊を編成しミッドウェー島からガダルカナル島に派遣。
また北海支隊を編成してアリューシャン列島のアッツ島へ派遣したものの、師団本体は1940年(昭和15年)8月に天皇直隷下に置かれて以降は「動かざる師団」として北海道に在り続けた。
1944年(昭和19年)2月 留守第7師団を基幹に第77師団が新設。
3月には師団司令部を帯広に移駐して道東方面の防衛に専念することになった。これに伴い、歩兵第26連隊を帯広、歩兵第27連隊を釧路、歩兵第28連隊を北見に配置し、計根別平野(現中標津町)を決戦地として定め、海岸陣地やトーチカの構築に専念するものの、予期された連合軍の襲来が無いまま、大東亜戦争は終結を迎えた。師団が設営したトーチカは今もなお根室、釧路、十勝の海岸線に残されている。