陸上自衛隊 第10師団


第10師団は、中部方面総監の隷下にあり、司令部を名古屋市守山区の守山駐屯地に置く。東海北陸6県(愛知、岐阜、三重、富山、石川、福井)の防衛警備を任務とする。
編成
師団は、中核となる師団長と師団司令部(守山)、師団司令部付隊(*1)(守山)及び以下の部隊が、守山(名古屋市守山区)・春日井(愛知県春日井市)・豊川(愛知県豊川市)・金沢・今津(滋賀県高島市)・久居(三重県津市)・明野(三重県伊勢市)の各駐屯地に展開している。
(*1)司令部の管理及び業務支援を任務とする旗本部隊。

守山第35普通科(歩兵)連隊(4個普通科(歩兵)中隊基幹)、豊川第49普通科(歩兵)連隊(4個普通科(歩兵)中隊基幹・コア部隊(*2))、金沢第14普通科(歩兵)連隊(4個普通科(歩兵)中隊基幹)、久居第33普通科(歩兵)連隊(4個普通科(歩兵)中隊基幹)、明野第10飛行隊(2個飛行隊基幹)、春日井第10偵察隊、豊川第10特科(砲兵)連隊、豊川高射特科(高射砲兵)第10大隊、春日井施設(工兵)第10大隊、春日井第10後方支援(輜重)連隊、守山通信第10大隊、守山第10化学防護隊、守山第10音楽隊、今津戦車第10大隊
(*2)教育訓練を主体とする部隊の事。2012年現在、広くは即応予備自衛官を主体とする部隊のことを意味する。「平時はコア(指揮官及び幕僚機能)のみを維持する部隊」の意味。コア部隊の2割が常備自衛官で残りの8割が、教育を受ける隊員・即応予備自衛官で構成される。
特性
 平成16年より始まった改編に伴い、定員が7千名から9千名に増加した「戦略機動師団」。
略歴
1959年(昭和34年)6月:第1管区隊を再編した第10混成団設立。普通科(歩兵)第14連隊基幹。
1962年(昭和37年)1月:第10師団に改編。普通科(歩兵)第14・第33・第35連隊基幹。
1991年(平成3年)6月:高射特科(高射砲兵)第10大隊、後方支援第10連隊新編
1992年(平成4年)9月:カンボジア国際平和協力業務支援の為、第1次カンボジア派遣施設大隊に43名が参加
1994年(平成6年)3月:中部方面航空隊隷下の第10飛行隊を師団隷下に改編
1998年(平成10年)11月以降、以下海外派遣を実施。
ホンジュラス共和国(ハリケーン被災者支援 1998/11)、第14次ゴラン高原派遣輸送隊(2002/7)、第3次東ティモール派遣隊(2003/2)、第5次イラク復興支援群(2005/2)、ジャワ島地震被災者支援の国際緊急援助活動(2006/6)
2004年(平成16年)3月より師団改編を実施。
2011年(平成23年)3月~7月:東日本大震災に伴う災害派遣。
2013年度末:即応近代化改編に伴い、即自訓練を中部方面混成団に移管。
【参考】
現在の10師団担任地域は、帝国陸軍では、名古屋3師団(愛知県・岐阜県・静岡県)、京都16師団(京都・滋賀・三重・福井の一府三県 S15より53師団)、金沢9師団(石川・富山・長野県 S15より52師団)が担任していた。
帝国陸軍第10師団は、日清戦争後の明治31年(1898年)10月に編成された。ひとことでいえば、日露戦以降のわが戦役のほぼすべてに参加した歴戦の精鋭師団といえる。衛戍地(*)は姫路。
日露戦争では第4軍(野津大将)隷下で遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加した。満洲事変勃発(昭和6年(1931年)9月)後の動員では、第8混成旅団を編制して12月に出征。支那の吉林省で掃討戦を実施。昭和9年(1934年)3月に復員した。
支那事変では昭和12年(1937年)7月に動員。台児荘の戦い・徐州会戦・武漢攻略戦に参加。昭和14年(1939年)10月に復員。この間に師団は改編を実施し、鳥取歩兵第40聯隊が東寧(満洲)第25師団に異動し、3単位制師団となった。師団は、昭和15年(1940年)8月から満州に駐留。支那事変では徐州会戦はじめ、広島第5師団などと共に奮戦して功績を残している。
大東亜戦争開戦後は関東軍直属兵団として佳木斯に駐屯。久留米12師団と同じく、満州国内で対ソ戦訓練や抗日パルチザン掃討等の治安維持活動に従事していた。
昭和19年(1944年)2月から師団の一部を太平洋方面に配置。同年7月には師団主力の南方派遣が決定。当初は台湾に配される予定だったが、フィリピンのルソン島に投入された。尚武集団としてバレテ峠、サラクサク峠で約半年に渡る持久戦を展開。衆寡敵せず壊滅状態となって終戦を迎えたが、師団隷下の姫路歩兵第39聯隊は、建武集団として奮戦した。
(*)陸軍部隊が永久にひとつ地に配備駐屯することを意味し、その地を衛戍地と称した。英語では Garrisonに相当する。