トーチ作戦とインテリジェンス(27) 長南政義

2019年2月6日

【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回から、フランス領北アフリカでインテリジェンス活動を展開していた三つの機関が、どのようにしてインテリジェンス・ネットワークを確立したかについて考察している。
フランス領北アフリカでインテリジェンス活動を行っていた機関は三つあった。すなわち、
1.駐ヴィシー米国代理大使ロバート・マーフィーの指揮下で動く十二人の副領事(十二使徒)・・・国務省系のインテリジェンス・ネットワーク
2.M・Z・“リガー”・スロヴィコフスキーが指揮するアフリカ機関・・・ポーランド軍&英国系のインテリジェンス・ネットワーク
3.ウィリアム・ジョセフ・ドノヴァン&ウィリアム・A・エディーのインテリジェンス・ネットワーク・・・情報調整局(OCI:後の戦略情報局(OSS))系のインテリジェンス・ネットワーク
以上、三つの機関である。そして、三つの機関は、それぞれ独自にインテリジェンス・ネットワークを構築していた。
十二人の副領事(十二使徒)の初期のインテリジェンス活動は、
彼ら自身が主体となって実施していたため、その活動を支援する
地元エージェントの数も比較的少数であり、インテリジェンス・
ネットワークも小さく、その範囲も限定されていた。
リガーのアフリカ機関は、ほぼ完全に秘密が保持されたインテリ
ジェンス・ネットワークであった。彼の秘密保持は徹底していて、
彼のエージェントですらリガーの正体は不明であった。リガーは、
オートミール粥の製造・販売を行うビジネスマンだと周囲を思わ
せることに成功していたのである。
今回は、ウィリアム・A・エディーがどのようにしてインテリジ
ェンス・ネットワークを形成したのかを述べたいと思う。
【レジスタンスや宗教団体が持つソーシャルネットワークを利用したエディー】
1941年12月、エディー中佐はタンジールに到着するや、
本部を創設し、情報収集のための情報系統の構築に着手した。
情報系統というと分かりにくいが、具体的には次のようなもので
ある。すなわち、エディーは、地元のレジスタンス指導者やタン
ジールに本拠地を置く宗教団体と接触し、港湾・上陸地点・重要
な軍事目標といった重要な情報を収集するために、彼らの支援
ネットワークを利用したのである。
1941年を通じて、レジスタンスや宗教団体関係者は、マーフィ
ーの十二使徒に価値のある情報を提供していた。たとえば、情報
提供者の中の漁師は対空砲の位置やドイツ海軍の潜水艦の動向な
どの情報を提供していたし、牧畜関係者は隠蔽されていた防備の
位置を特定していた。他にも、二人の電信関係者は解読された
ドイツの電信のコピーを提供していたし、航空機関係会社のある
主任技術者は空港とその防備の設計図を提供していた。北アフリカ
で様々な職業に従事していたレジスタンス関係者や宗教団体関係者
は、まさに情報の宝庫といえた。
【レジスタンスを活用したエディー】
エディーも12使徒同様に、北アフリカのアルジェ、オラン、
シェーシェルでいくつかのレジスタンス集団(これらのレジスタ
ンス団体は1940年8月から活動していた)と共にインテリ
ジェンス活動を開始したのである。
レジスタンスは小規模な軍事組織ないしは準軍事的組織であり、
北アフリカを大戦に参加させるために実業界や陸軍の中で支持者
を獲得しようと活動していた。
エディーは、レジスタンスを単に情報収集だけのために使うので
はなく、武器や装備品を密輸するためにも利用し、レジスタンス
のネットワークを利用して北アフリカにおける反枢軸の宣伝活動
を組織化した。
【エディーはどのようにして情報を収集分析したのか?】
では、エディーは、具体的にどのようにして情報を収集分析した
のであろうか?
エディーは、命令された通りに、英国から供給された無線機を
使用して支局をつくり、各支局にコードネームを付けた。たと
えば、カサブランカはリンカーン、アルジェはヤンキー、チュ
ニスはピルグリム、オランはフランクリン、タンジールはミッド
ウェイといったコードネームであった。
これらの支局は、支局のエージェントたちが収集したすべての
情報をエディーに伝達した。そしてこうして収集された情報は、
アフリカ機関が送ってくる外交郵袋のなかの情報文書でフォロー
された。そして、そのようにして収集された情報がエディーの手
にわたると、彼はそれを分析し、その情報分析結果をワシントン
とロンドンに送ったのだ。
【集権化された情報の流れ】
支局を運営する機関員たちは、船舶輸送や積荷を監視し、防衛
状態を地図に書き込み、そういった情報を本部に送っていた。
そして支局から送られてきた情報(インフォメーション)は
エディーにより分析されることでインテリジェンスとなり、
政策中枢に送られるのである。
このような情報の流れ――支局のエージョンとからワシントン
およびロンドンの指導者まで――は、中央集権的な情報の流れ
を作り出したと評価できる。
この集権化された情報の流れは短期的には次のような結果を
もたらした。すなわち、OSSが報告した枢軸国関係の船舶の動き
に関する情報に基づき、しばしば英国海軍の潜水艦が船舶を発見
し撃沈したのである。
【OSSが提供した情報はどのようなものであったの?】
また、OSSは、連合軍の予想上陸地点周辺に関する地形に関する
報告書などのような情報も提供していた。OSSは、他にも有益な
情報を提供している。OSSの情報分析報告書を米陸軍の公刊戦史
から引用してみよう。
「オランの防備にはかなり強力な45門の要塞海岸砲が含まれ
ており、アルジューには6門以上の要塞砲がある。そのうち
最も重要なのは、メルセルケビールの西デジェベル・サントン
[中略] にあるものである。
サントン要塞には7.6インチ砲が4門あり、対空砲が集中配
備されている。約16700人のオラン師団は、一部が港湾周
辺の兵営に駐屯しており、[中略] 一部は1日行程の内陸部に
ある駐屯地に駐留している。
オラン南南東約6マイルの所にあるラ・セニアの陸軍飛行場、
オランの南東約12マイルの所にあるタファラオウィ海軍飛行場
およびオランの北東約22マイルの所にあるアルジュー海軍航空
基地は、オラン防衛システムの一部である。約100機の軍用機
が通常そこに駐留している。[中略] オラン港の西端およびメルセルケビール海軍基地には、フランス
海軍の艦艇が通常碇泊している」(ジョージ・ハウ『北西アフリ
カ 西部の主導権を把握する』原題:Northwest Africa: Seizing
the Initiative in the West)
【エディーに対してリガーの存在を秘密にしていたワシントンとロンドン】
このような詳細な情報分析報告書は、ロンドンやワシントンの
戦略計画策定者にたいへん精確な敵情を提供したといえよう。
しかしながら、エディーが把握できなかったこともある。すなわち、
彼はタンジールに到着してから最初の2~3ヶ月の間、リガーが彼と
同様に無線機を通じてロンドンに情報を送信していたことを知らな
かったのだ。
しかしながら、公式文書を読む限りでは、戦略計画策定者たちが情報
不足に関して不平を述べている記録は存在しない。実際、彼らは、
エディーがリガーの活動を知る日まで、リガーの活動の存在を秘密に
していたのである。
次回は、連合国にとって最大の謎であったフランスの動向を連合国が
どのように考えていたかについて述べる。