トーチ作戦とインテリジェンス(29) 長南政義
【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回から、連合国にとって最大の謎であったフランスの動向を連合国がどのように考えていたかについて述べている。
フランス領北アフリカへの侵攻作戦を立案・準備する連合軍の作戦立案者にとって最大の謎は、フランスの動向であった。
連合国はフランス領北アフリカを可能であれば無抵抗で通過したいが、フランスは連合軍のフランス侵攻に際し、どのような行動に出るのだろうか?という問題である。
この複雑な謎は、ルーズヴェルト大統領にとって最大の関心事であった。そこで、ルーズヴェルト大統領は、マーフィーに対して、「アフリカにおけるウェイガンの実際の権限の範囲。この老兵が将来に何をするつもりなのか?そして、米国はウェイガンを助けるために何ができるのか?」についての回答を出すように要求した。
マキシム・ウェイガンは、ヴィシー政権の国防大臣を務め、
1941年7月にはフランス軍北アフリカ駐留軍総司令官兼
アルジェリア総督に就任する人物であった。したがって、
連合軍が北アフリカに上陸する上で、彼の動静を探ることは
必須の問題であったのだ。
また、北アフリカに対する連合国の上陸作戦が実現に近づく
につれて、フランス領北アフリカにおけるインテリジェンス
活動の焦点は、戦略的なものから作戦的・戦術的なものへと
急速に変化した。上陸作戦計画立案のための諸活動と作戦立案
のための情報要求が頻繁になされるようになるにつれて、
収集される情報の焦点が、一般的なものからより詳細かつ専門的
なものへと変化したのである。
前回に引き続き今回も、連合国にとって最大の謎であった
フランスの動向を連合国がどのように考えていたかについて
述べたいと思う。
【多岐にわたる情報要求】
ロンドンおよびワシントンから要求される課題や任務は、
ありふれた内容のものから詳細なものまで多岐にわたっていた。
たとえば、ロンドンやワシントンから要求される任務には、
カサブランカのビーチの波の高さを測定するといったことから、
フランスの指導者が親連合国的かどうかを探ることや、
フランス軍が連合国によるフランス領北アフリカ上陸に際して
抵抗しないようにさせることなどが含まれていた。
さらに、政策立案者からはより政治的内容の情報要求が副領事、
OSSおよびアフリカ機関に出されていた。すなわち、
「フランス陸軍はどちらの側につくのか?」
「フランスは、枢軸国に対する戦争をやり直す機会として、
連合国によるフランス領北アフリカ侵略を支持するだろうか?」
「フランス軍将校は、自身の名誉を保つために形ばかりの抵抗を
した後で、再度枢軸国と戦うために降伏するだろうか?」
「フランス軍はいかなる侵略に対しても頑強に抵抗し、大戦終結
まで孤立を守るのだろうか?」
といった問題に対する回答である。
【中立国スペインの意図を探れ】
トーチ作戦の作戦計画立案者や上級指導者は、フランス領
北アフリカに関することについて知ることを望んだだけでは
なく、フランコ総統率いる中立国スペインの意図を知ること
も望んでいた。スペインは、連合国のフランス領北アフリカ
侵攻に際してどのような態度に出るのか?という問題である。
地中海を挟んで北アフリカの対岸に位置し、北アフリカの
モロッコに領土を持つスペインの動向は、地政学的にみて
北アフリカで実行されるトーチ作戦にとり重要な意味を持っていた。
【アイゼンハワー将軍の海軍副官ハリー・C・ブッチャー海軍中佐の日記】
アイゼンハワー将軍の海軍副官を務めたハリー・C・ブッチャー
海軍中佐は、アイゼンハワー将軍のあらゆる行動に関して日記
を書き続けていた。ブッチャーの1942年9月16日の日記には
以下のように書かれている。
この日、ロバート・マーフィーはアイゼンハワーおよびその幕僚
と協議するためにロンドンに到着した。この日の会談で、
「彼(筆者註:マーフィー)は、次の2つの大きな問題に回答
することができなかった。
1、 スペインは、特にスペイン領モロッコにおいて戦闘行動に
出るだろうか?スペインはジブラルタル海峡を閉鎖したり、
ジブラルタルの航空基地や港湾を攻撃しようと試みるだろうか?
2、 フランスでは何が起きるだろうか?」(ハリー・C・ブッチャー
『アイゼンハワーとの三年間 ――アイゼンハワー将軍の海軍
副官ハリー・C・ブッチャー海軍大佐の日誌、1942年~1945年――』
(原題:My Three Years with Eisenhower; The Personal Diary
of Captain Harry C. Butcher, USNR, Naval Aide to General
Eisenhower, 1942 to 1945 )
【副領事クーンに出された奇妙な内容の情報要求】
情報要求のいくつかは現地で情報収集にあたるエージェント
たちにとっていささか風変りなものに見えた。タンジール領事館
で副領事であったカールトン・クーンは、SOE(英国の特殊
作戦執行部)から奇妙な内容の情報要請を受けた。
SOEはクーンに対し、敵の車輛を破壊するために道路に沿って
設置するタイヤ破壊用火薬を焼石膏で製造するためにフラン
ス領モロッコの道路にある石を拾って欲しいと要請したのだ。
クーンは、適切な石を発見することができなかったが、ラバの
糞が豊富であることに気づき、石の代わりにラバの糞を送った
と述べている(カールトン・クーン『北アフリカ物語 ――
1941~1943年にOSSエージェントだった人類学者、――』。
原題:A North Africa Story: The Anthropologist As OSS Agent, 1941-1943 )。
連合国は、その後、ドイツ軍とイタリア軍に対しチュニジア
でこれら起爆性の糞を効果的に使用している。
もちろん、クーンにはよりまともな内容の情報要求も出されて
いた。クーンは回想録に次のように書いている。
「6月の最後の数日にわたり、ブラウンと私は、スペイン植民地領を
通ってタンジールからメリラまでの道路を測量していた。というのも、
もし軍事作戦がこの地帯で実施されるならば、陸軍はこの道路を使用
しなければならないということが、我々にはわかっていたからだ。
我々は速度計で道路の距離を測定し記録し続けた。その際、100
メートルごとに、あらゆる運河、土手道、暗渠および橋梁の位置に
注意した。換言すると、これらは破壊ないしは空爆の目標となる。
同時に、我々は視認できるすべてのスペイン軍防衛陣地の位置にも
注意した。
その後、この測量記録はジョンソン大佐に渡され、大佐からG2(情報部)
へと送られた」。
【ロンドンがアフリカ機関に出した情報要求】
ロンドンはアフリカ機関の能力について十分に理解していな
かった。アフリカ機関の情報収集分析能力は高かったが、規模
が小規模であるために情報要求に回答するのには時間がかかる。
しかし、ロンドンはこの点に対する認識に欠けていた。そのため、
ロンドンはアフリカ機関を率いるリガーに対して絶えず情報要求
を出していた。その結果、リガーは回答を準備するために十分な
時間的余裕を与えられない場合があった。たとえば、次のような
情報要求がある。
ロンドン発「フランスがチュニス・ガベス鉄道をチュニスのSE
まで延長する可能性はあるのか?イタリアがトリポリから
チュニスへ向け西方に鉄道を延長する可能性はあるのか?彼らは
何を達成したのか?この地域において鉄道を敷設したり、電話線
を建設したりするなどの準備が存在するのか?」
ロンドンからリガーに出された情報要求の中には、情報カスタマー
側の要求意図がより明確な内容のものがある。たとえば、
「チアナネット油井に関する詳細」
「日本との貿易に関する情報。すなわち、フランス領北アフリカの
諸港に日本の船舶が存在しているかどうか。そしてその積荷は何か?」
「ビゼルト基地およびチュニス港の沿岸防衛の現状兵力」
「シディ・ベル・アッベスに所在する新しい四十六ミリ対空砲の
試験は実行されたのか?正確な試験結果に関する報告」
「カサブランカにある重砲砲台に関する情報」
というものがそれだ。
リガーは、情報カスタマーの意図がたとえ不明瞭な情報要求で
あってもロンドンからの情報要求の大部分に回答したと述べている。
アフリカ機関の能力は高かったので、情報要求のいくつかはわずか
な時間で回答できたのだ(M・Z・“リガー”・スロヴィコフスキー
『シークレット・サービスで勤務して ――たいまつに火を点け
て――』(原題:In the Secret Service: The Lighting of the Torch)。
次回は、副領事やアフリカ機関などが収集した情報を上級指導者や
作戦計画立案者がどのように使用したのかについて述べたい。
(以下次号)