「謎に包まれたウィロビーの出自」–朝鮮戦争における「情報の失敗」 ~1950年11月、国連軍の敗北~(24)

2020年4月21日

From:長南政義
件名:謎に包まれたウィロビーの出自
□はじめに
7月28日、株式会社並木書房会長 奈須田敬先生がご逝去なされました。
奈須田先生は、1976年の創刊から2011年3月号をもって
休刊となるまで長年にわたり月刊誌「ざっくばらん」の編集長と
して同誌を発行し、外交・安全保障問題に関し健筆をふるわれて
おられました。
奈須田先生の「政軍関係」に関する論稿は優れたものが多く、
元統合幕僚会議議長栗栖弘臣氏が超法規発言を行い当時の防衛庁
長官金丸信氏から馘首された時には栗栖氏を支持する論陣を張られ、
のちに栗栖事件と政軍関係に関する論稿は『統幕議長が総理に
呼ばれるとき――日本の政軍関係』(原書房、1980年)と
して書籍化されました。また、「ざっくばらん」に掲載された
奈須田先生の論文のうち、秀作の20本が『天下国家を論ず』
(並木書房、2011年)としてまとめられています。
筆者は、約6年前に元防衛大学校教授佐瀬昌盛先生のご紹介で
はじめて奈須田先生にお会いし、それ以降も何度かお会いいた
だきいろいろとご教示いただいた思い出がございます。
先生ご自身が太平洋戦争中に反戦的だとして憲兵隊に逮捕され
た話、先生が『日本週報』編集長時代にお会いになられた旧軍人
に関する面白いエピソード、自衛隊に関する故事来歴など、
いろいろ興味深いお話をお伺いいたしましたことは、いまでも
忘れることのできない大切な思い出です。
奈須田先生に最後にお目にかかったのは昨年の11月でしたが、
「頑張ってください」という激励の言葉をいただいたことが昨日の
ことのように思い出されます。
つつしんで、奈須田先生のご冥福をお祈りいたします。
▽前回までのあらすじ
前回の連載で、ウィロビーの家系をめぐる混乱が、ウィロビーの
キャリアを通じてウィロビーを悩ませたことを指摘した。
前回の連載でも指摘したように、ジャーナリストのフランク・クラック
ホーンは、ウィロビーが「常に粋でカスタムメイドされた制服を好み、
片眼鏡を時々身に着けていた」と書いているが、外見から生じる
このような印象に加えて、ウィロビーは1920年代中頃までかなり
ドイツ風のアクセントが強かった。ウィロビーがこのような印象を
意図的に築き上げたか、あるいはただ単に偏見の犠牲者であったか
否かという問題はひとまず置いておくにしても、ウィロビーのユニーク
なバックグラウンドが彼のキャリアに大きな影響を与えていたこと
は確実であるといえよう。
では、ウィロビーの経歴や受けた教育が朝鮮戦争におけるウィロビーの
対中認識や情報分析にどのような影響を与えたのか、という問題を
考えるために、今回から数回にわたり、やや詳しく朝鮮戦争勃発まで
のウィロビーの経歴を見ていくことにしてみたい。
▼謎に包まれたウィロビーの出自  ~ウィロビーは男爵の子息か?~
筆者は前々回、ウィロビーがドイツ人の父とアメリカ人の母との間に
生まれたと書いた。さらに、ウイキペディアやウィロビーに関して
書かれた書籍の中でもそのように説明されることが多いが、ウィロビー
の出自に関しては未だに謎の多い部分が多いというのが実際のところ
である。
1892年、ウィロビーは、ドイツ人の父であるツェッペヴァイデ
ンバッハ(Scheppe-Weidenbach)男爵とアメリカ人の母である
エマ・ウィロビーの子として生まれた。生誕当時の名前は、アドルフ・
カール・ヴァイデンバッハといった。
この記述が正しいとするならば、周囲から「チャールズ卿」と貴族的
なあだ名で呼ばれていたウィロビーはドイツ貴族の子ということに
なるが、ここで紹介した系譜は、極東軍司令部情報部により公開された
ウィロビーの履歴およびウィロビーの関係個人文書を収蔵している
ゲティスバーグ大学により公表されているウィロビーの略歴に基づ
いた記述であり、ウィロビーの家系の真実は謎に包まれている部分
が多い。
たとえば、フランク・クラックホーンは、ウィロビーがドイツ人の
ロープ製造業者オーギュスト・ヴァイデンバッハとエマ・ラングハ
ウザーの非嫡出子として生まれた可能性があると、1952年の
記事で書いている。
これとは別に、ウィロビーは、彼が自身の父を知らないことと、
彼が孤児であったことをクラックホーンに対し認めている。自身の
父を知らないというきまりの悪い状況のため、ウィロビーは彼が
米国に移住した際に自身のステータスを高めるために貴族という
系譜を捏造したのかもしれない。また、もし実際に彼が貴族の子で
あるとしても、米国移住後のウィロビーがドイツ人貴族としてふさ
わしい地位を否定されたと感じていたかもしれない。いずれにせよ、
いまとなっては、ウィロビーがドイツ人貴族の子であったか平民の子
であったかは不明である。
▼ウィロビーの受けた教育 ~パイロットだったウィロビー~
ウィロビーが受けた教育は彼が未来の情報将校として活躍する素地を
準備するような内容であった。
ウィロビーは1910年に米国に移住する以前に、ハイデルベルク
大学やパリのソルボンヌ大学で学んだとされている(ウィロビーが
欧州で大学教育を受けたことを疑問視する研究もある)。
ウィロビーが欧州で受けた大学教育は言語や人文科学に力点が置かれた
教育で、言語学の学位を得ると共に、フランス語、スペイン語および
ドイツ語といった言語をマスターしたという。
ウィロビーの経歴がはっきりしてくるのは1910年10月に
アメリカに移住した後からである。アメリカ本土の土を踏んだ
ウィロビーはただちに米陸軍に入隊し、1913年まで軍務に就く。
ウィロビーは、1910年に第5歩兵連隊に二等兵として入隊した
後、軍曹まで昇進し1913年に名誉除隊している。
陸軍除隊後のウィロビーは、ハイデルベルク大学およびソルボンヌ
大学で3年間学んだという主張が認められ、1913年にペンシル
ヴァニア州に所在するゲティスバーグ大学に4年生として入学し、
1914年に文学士の称号を得ている。ゲティスバーグ大学在籍中、
ウィロビーは予備役将校訓練課程(ROTC)を修了した。
大学卒業後、ウィロビーは予備役少尉となり、以後3年間、予備役
将校として勤務する傍ら、アメリカ国内の寄宿学校で語学と軍事学
を教えて過ごした。そして、1916年、ウィロビーは予備役少尉
から正規軍の少尉に任命され第6歩兵連隊で勤務した。任官当時の
名簿にはアドルフ・カール・ヴァイデンバッハの名で登録されている。
そして、1917年6月、大尉に昇進したウィロビーは、米国遠征軍
(the American Expeditionary Force)隷下の第1師団第16歩兵
連隊に所属しフランス戦線へ参戦した。
フランスでのウィロビーは、歩兵連隊から陸軍航空隊に転属し、
戦闘機パイロットとしての訓練を受け、同訓練課程を修了している。
ウィロビーの陸軍航空隊将校としての経歴は短期間であったが、
この期間にウィロビーは、のちに太平洋戦争で米国陸軍戦略空軍
司令官として原爆投下を指揮したカール・スパーツ少佐(のちの
大将)の部下として米国陸軍飛行訓練センターで勤務している。
▼スパイ疑惑を受けたウィロビー
日露戦争当時の日本では「露探」(ロシアのスパイ)と疑われた
人物が出たが、第一次世界大戦中のアメリカでもドイツ系アメリカ人
はスパイとみられる風潮があったようで、ウィロビーにもいくつかの
疑惑がかけられた。
たとえば、1917年に、ウィロビーは親ドイツ的感情を持っている
として尋問のためワシントンに召喚されたことがあると指摘する論者
がいるのがその代表例である。
おそらく尋問のため召喚されたというのは真実ではないにしろ、
戦争中に自身の出自がドイツ系であったことが憚られたのは確かで
あり、ウィロビーは第一次世界大戦末期に、ドイツ風のアドルフ・
カール・ヴァイデンバッハ(Adolph Charles Weidenbach)から母の
旧姓にちなんでチャールズ・アンドリュー・ウィロビー
(Charles Andrew Willoughby)へと改名している。
▼戦間期のウィロビー
あらしのような戦間期、ウィロビーを取り巻く環境もめまぐるしく
変化した。戦間期のウィロビーは、指揮官職、駐在武官、カンザス州
フォート・レブンワースにある陸軍指揮幕僚大学の教官職と、様々な
ポストを経験している。
大学時代に受けた語学教育や第一次世界大戦中のパイロットとしての
勤務にもかかわらず、戦間期にウィロビーが最初に配属された先は、
歩兵部隊であった。たとえば、ウィロビーは、ジョージア州フォート・
ベニングの機関銃教導部隊や、メキシコ国境沿いに展開する中隊・
大隊に配属されている。
1923年、陸軍はウィロビーを軍事情報部門に配属することで彼が
受けた広範囲の教育と言語の才能を活用することとした。1923年
から1928年にかけて、ウィロビーは、ベネズエラ、コロンビア、
エクアドルの駐在武官として勤務した。先に、ウィロビーが欧州で
受けた大学教育でスペイン語をマスターしたことに言及したが、
これらの国々の公用語はスペイン語である。
駐在武官として勤務した際に、ウィロビーはこれらの国々を治める
歴史に名高い独裁者たちと直接接触している。なかでも有名なのは、
ベネズエラの大統領ファン・ビセンテ・ゴメスで、牧童から大統領に
までのし上がった人物として知られている。ゴメスは、1908年に
クーデターで政権掌握後、1935年に死去するまで27年間に長き
にわたり軍事独裁体制を敷き、1918年に発見されたマラカイボ
油田をはじめとする油田開発によって得た莫大な歳入により自国の
軍隊を最新装備で武装し、反対派を徹底的に弾圧し「アンデスの暴君」
と呼ばれた人物である。
興味深いことに、ウィロビーはエクアドルの駐在武官として在勤中に、
イタリアのファシスト政権から聖マウリッツィオ・ラザロ勲章を授与
され、イタリアに対し強い印象を抱くことになっている。
▼フランコ総統を崇拝
「アンデスの暴君」ファン・ビセンテ・ゴメスとの交友やイタリアの
ファシスト政権からの叙勲によっても窺うことができるように、
ウィロビーは独裁者を崇拝する傾向にあった。それを象徴するのが
ウィロビーのフランコ崇拝である。
1920年代のウィロビーはスペインの独裁者フランシスコ・フランコ
総統の崇拝者としても知られており、フランコを「世界で二番目に
偉大な将軍」と呼んでいた。ウィロビーはモロッコでフランコに会い、
マドリードで開かれた昼餐会の席でフランコを讃えるスピーチを行い、
ファラフェン党の事務局長から乾杯の栄を受けている。
駐在武官として一連の勤務を行った後の1929年、ウィロビーは
フォート・レブンワースの陸軍指揮幕僚大学に学生として入学し、
31年には同校の教官として配属され、いくつかの書籍を執筆している。
▼ウィロビーが見せた演劇の才
クラックホーンによれば、ウィロビーは指揮幕僚大学で「演劇同好会
でこれまでロマンチックな役柄を演じた役者の中で最も天性の才能が
ある悲劇役者の1人」として知られていたという。
ウィロビーが持っていたこの役者としての才能は、彼が将来マッカ
ーサーにより最も信頼される幕僚という地位を得るに際し、ウィロ
ビーにとって都合の良い方向へ働くこととなった。
ウィロビーは戦間期に着実に昇進し、1928年には少佐、
1936年には中佐に昇進している。そして、1939年、
ウィロビーはフィリピンに配属されここで兵站将校として初めて
マッカーサーに仕えることとなった。以後十数年の長きにわたる
ウィロビーとマッカーサーとの関係がここから始まることとなる。
(以下次号)
(長南政義)
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●著者略歴
長南政義(ちょうなん まさよし)
戦史研究家。國學院大學法学研究科博士課程前期(法学修士)及び拓殖大学大学院国際
協力学研究科安全保障学専攻(安全保障学修士)修了。国会図書館調査及び立法考査局
非常勤職員(『新編 靖国神社問題資料集』編纂に関与)、政策研究大学院大学COEオ
ーラルヒストリー・プロジェクト・リサーチ・アシスタントなどを経る。
戦史研究を専門とし、大学院在学中より日本近代史の権威・伊藤隆の研究室で、海軍
中将中沢佑などの史料整理の仕事に従事、伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料
情報辞典』3巻・4巻(吉川弘文館)で大山巌や黒木為もと(木へんに貞)など陸海軍
軍人の項目を多く執筆。また、満洲軍作戦主任参謀を務めた松川敏胤の日誌を発掘し
初めて翻刻した。
主要論文に「史料紹介 陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌──日露戦争前夜の参謀
本部と大正期の日本陸軍──」『國學院大學法政論叢』第30輯(2009年)、「陸軍
大将松川敏胤伝 第一部 ──補論 黒溝台会戦と敏胤」『國學院大學法研論叢』第38
号(2011年)などがある。
最新刊 『坂の上の雲5つの疑問』 http://tinyurl.com/7qxof9v
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