朝鮮戦争における「情報の失敗」 ~1950年11月、国連軍の敗北 (1)~

2019年2月6日

□はじめに
 前回は、マーケット・ガーデン作戦を素材として「情報の失敗」がどのようにして起こるかについて考察した。マーケット・ガーデン作戦における「情報の失敗」の事例は、情報コミュニティーが正しい情報を高級指揮官・作戦立案者に提供したにもかかわらず、モントゴメリー元帥を始めとする高級指揮官が作戦実施を焦慮するあまり、その情報を無視したことに「情報の失敗」が発生した原因があった。
今回からしばらくの間、1950年11月に起きた人民義勇軍の参戦に 伴う国連軍の敗北を素材として、朝鮮戦争における「情報の失敗」の事例を検討してみたい。
1950年11月の朝鮮戦争の事例では、情報を提供「された」側(高級指揮官や作戦立案者)だけではなく、情報を提供「する」側にも失敗が発生した責任が存在するのである。
そして、朝鮮戦争における情報の失敗には、日本降伏後、GHQの参謀部第二部部長として戦後日本に大きな影響を与えた日本人にもなじみの深い人 物、チャールズ・ウィロビー陸軍少将が、大きく関与している。彼の回想録『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』(番町書房、1973年)は、昨年『GHQ知られざる諜報戦』(山川出版社、2011年)として復刻され話題となったので、同書を繙か れた方も多いであろう。
しかしながら、「回想録は自己弁明のために書かれる」との歴史学の皮肉な格言の通り、ウィロビーの回想録も自己弁護色の強いものとなっている。
ディヴィッド・ハルバースタムは、その著書『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』 (文藝春秋、2009年)の中で、ウィロビーは「中国共産党軍は介入しない」という報告をマッカーサーに行い、マッカーサーはこの報告を根拠にハリー・トルーマン大統領に中華人民共和国は朝鮮戦争に参戦しないと言明したと指摘しているが、ウィロビーの回想録からはこの問題に関する反省の色はあまり見られな い
■総論 ~無視された人民義勇軍参戦の徴候~
 1950年10月31日、米軍の戦闘を前進する第1騎兵師団第8騎兵連隊は満洲との国境にほど近い北朝鮮の平安北道雲山郡に位置していた。
この日、第8騎兵連隊所属のハーバート・ミラー軍曹は目の前にいる朝鮮人農夫が彼に伝えた情報の重大性を理解していた。第二次世界大戦にも従軍し、朝鮮戦争勃発直後の釜山橋頭堡への悪夢の退却戦も経験していたベテラン軍人のミラー軍曹はこの朝鮮人農夫を大隊指揮所に連行して農夫に直接話をさせた。
この農夫によれば「何千もの中国人兵士が雲山北方の丘陵部で待機している。その多くは馬に乗ってやって来た」というのである。
しかしながら大隊指揮所にいた将校たちの反応はベテラン軍人のミラー軍曹に衝撃を与えるものだった。
なんと、大隊指揮所に所在した将校たちは誰もこの報告に関心を示そうとせず、したがって何の対策も講じられなかったのである。ハルバースタムは、その著書『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』の中で、ミラー軍曹の反応を「連中は情報の専門家だ。連中は[この情報を]知っているに違いない、とミラーは思った」と書いている。
 2日後、人民義勇軍の2個師団が第8騎兵連隊に猛烈な夜間攻撃を仕掛け、米第8軍はこの年の9月以来初めてとなる防衛戦を強要されることとなった。
マッカーサー主導の仁川上陸作戦で国連軍有利に傾きかけた戦争の潮流がまた変化したのである。この戦闘は、米極東軍司令官中国側が決定的といえるほどの大規模で朝鮮戦争に介入したことを評価する最後の機会をマッカーサー元帥および彼の情報幕僚であるウィロビーに与えることとなった。
 1950年11月、米軍は、北朝鮮国内の凍てつく山岳地帯で、彭徳懐率いる人民義勇軍によって、米軍史上最も破滅的な敗北の1つを経験させられた。
この敗北は、近い将来のうちに確実だとみられていた朝鮮戦争での米国の勝利から兵士各人の生存を賭けた退却戦へと朝鮮戦争の性格を根本的に変化させた。
特に米海兵隊ではこの退却戦は「長津湖での笞刑」(Chosin Gauntlet:笞刑とは2列に向き合って並んだ人が罪人をむちなどで打つ軍隊の刑)として有名である。
しかしながら、この朝鮮戦争における潮流の変化は回避可能なものでもあった。というのも、人民義勇軍の勝利は米国の情報戦史のなかでも最も明白な失敗の1つであったからである。
毛沢東が主導する中国共産党率いる中華人民共和国が戦争に介入するという明白な兆候はミラー軍曹の報告以外にも多数存在した。それにも かかわらずマッカーサーとウィロビーはその兆候を無視し、北朝鮮軍を撃破し朝鮮半島を統一しようとする彼らの試みを継続したのである。
この情報の失敗の責任をもっとも負うべき人物は、米極東軍参謀部第二部(G2:情報部)部長チャールズ・ウィロビー陸軍少将である。
彼の不正確な情報報告が、ダグラス・マッカーサー元帥が中国側の意図を誤って理解することの一因となった。
また、ウィロビーの偏見に満ちた情報分析は統合参謀本部、CIAだけではなく大統領にも第二、第三の波状的悪影響をもたらし、国家戦略レベルで失敗を倍増させる結果につながった。
ウィロビーは、自身の回顧録のなかでも述べているように、1950年後期に朝鮮半島に中国が介入することの脅威を正確に理解していたが、中国側が発した警告や参戦準備の徴候の重要性を理解することに失敗した。
1950年秋における中国側の意図に関するウィロビーの誤った評価は「ミラー・イメージ」の結果であり、朝鮮戦域に関する情報報告に関する ウィロビーの排他的支配から生じた「批判者のいない仲間内」での情報分析によって複雑なものとなった。
そして、中国人の戦闘能力に対するウィロビーの個人的偏見がこの問題をさらに悪化させた。国連軍司令部は人民義勇軍が鴨緑江を渡河して北朝鮮国内に侵入したと的確に認識していたが、ウィロビーは1950年 11月に予定されていたマッカーサー主導の鴨緑江への攻勢作戦を支持する目的でこの情報の重要度を下方修正し、その結果、米軍は人民義勇軍によって打ち負かされたのであった。
以下、今回から数回にわたり、以上のことを詳述してみたいと思う。
■仁川上陸作戦の成功で増長するマッカーサー
 まず、開戦から1950年11月までの朝鮮戦争の経過を概観してみたい。というのも、マッカーサーと彼の参謀部が情報の失敗を犯してしまう萌芽は、この過程で芽生えたからである。
1950年6月25日、ソ連製の大砲とT34戦車とを装備した金日成率いる北朝鮮軍13万5千は38度線を越え南進を開始し、装備も貧弱で練度でも劣る韓国軍を撃破し、瞬く間にソウルを占領した。侵攻から数日以内に、ハリー・トルーマン大統領は朝鮮半島南部防衛のために米軍を投入する決定を下した。
7月5日、チャールズ・スミス中佐が指揮する第21歩兵連隊第1大隊で構成されたスミス支隊がソウル南方の烏山で南進中の北朝鮮軍の先鋒部隊を迎撃した。
北朝鮮軍と米軍とが初めて本格的に干戈を交えた烏山の戦いである。マッカーサーは第24歩兵師団が朝鮮半島に展開する時間を稼ぐために九州熊本で占領任務に従事していた第21歩兵連隊第1大隊を第24歩兵師団の先遣隊・スミス支隊として韓国に送り込み、遅滞戦術をとらせていたのだ。
スミス支隊は2個小銃中隊のほか、75ミリ無反動砲小隊、107ミリ迫撃砲小隊などで構成される440名ほどの部隊で、M2105ミリ榴弾砲6門、榴弾1200発、要員134名を有する第52野砲大隊の支援を受けていた。
ただ、第52野砲大隊が有する対戦車榴弾は合計6発しかなく、対戦車戦闘の面で不安を抱えていた。T34戦車を先頭にした北朝鮮軍の縦隊を迎撃したスミス中隊は、75ミリ無反動砲や60ミリバズーカ砲で敵戦車を攻撃し、多数の命中弾を得たものの効果はほとんどなく、スミス支隊は約150名の損害を出し(第52野砲大隊の損害は別)、生存者は散り散りになって南方へと逃げ去った。
烏山の戦いにおいてオリイ・D・コーナー中尉がバズーカ砲で敵戦車に22発撃ちこんでも、炸薬が劣化していたことが原因で敵戦車を撃破できなかったことに象徴されるように、烏山の敗戦は米国の戦争に対する準備不足を白日の下にさらす戦闘であった。
烏山の敗戦以降も米軍および韓国軍は北朝鮮軍の猛進撃を阻止しようとしたが成功しなかった。7月20日、韓国中部の要衝の大田を喪失した米韓両軍は、洛東江に沿って防衛ラインを構築した。この防衛ラインは後に釜山橋頭堡の名で呼ばれることとなり、釜山橋頭堡をめぐる戦闘は幾多の激戦で多くの人の記憶にその名 を刻むこととなった。
日本の駐屯地から朝鮮半島へと部隊を投入する一方で、マッカーサーは北朝鮮軍部隊の後方連絡線を遮断し、戦争を短期間で終結させようとする野心的な反攻包囲作戦を計画していた。
朝鮮戦争初期の頃からマッカーサーは戦争の流れを一変させるような大規模水陸両用作戦で敵を袋のネズミにするプランを頭に描いていたのだ。
最終的に、マッカーサーは北朝鮮軍に決定的一打を与える地点として仁川を選択した。マッカーサーは、太平洋戦争の期間中、日本軍が強固に防衛している地点を迂回し、日本軍が最も脆弱な地点を攻撃するため、最良の作戦機動方法として戦線後方への強襲上陸作戦を多用する傾向にあったが、仁川上陸作戦計画には彼の好みが影響していたといえる。
しかしながら、自身の作戦計画を認可するよう統合参謀本部を説得する彼の努力にもかかわらず、仁川上陸作戦は多くの反対に直面することとなった。
仁川上陸作戦は、ただでさえ貧弱な米軍の戦争資源(兵力・兵器・軍需品など)を釜山橋頭堡内で激戦を展開中の疲弊した米第8軍から抽出する危険性があったのである。
朝鮮戦争で両用即応群(Amphibious ready group) を率いたジェームズ・ドイル海軍中将のようなマッカーサーの司令部の重要メンバーさえもが、仁川上陸計画に疑問を抱いていた。
最終的にマッカーサーは統合 参謀本部説得に成功し、クロマイト作戦と呼称された仁川上陸作戦を1950年9月15日に実施した。
米第10軍団が仁川に上陸してから数日のうちに、米第8軍は洛東江沿いの釜山橋頭堡から出撃することに成功し、38度線の南側にいる北朝鮮軍部隊の撃破を完了するために北進を開始した。
仁川上陸作戦の成功はマッカーサーとその参謀たちの正しさを証明したが、それと同時にこの成功は、1950年11月に人民義勇軍の朝鮮戦争への参戦の徴候を警告した先見性のある人々の見解に対して、マッカーサーらが耳を傾けなくなる端緒を形成した。その意味で、仁川での成功はそれから2か月後に北朝鮮で米軍が敗北する結果を惹起させた原因の1つでもあったのである。
ハルバースタムは、「米国が韓国で成功すればするほど、北朝鮮領内での北進に制限をかけるのが困難となった」と指摘したが、マッカーサーとその幕僚は、米第 8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将を含む仁川上陸作戦に反対を表明した人々と距離を置くようになった。
マッカーサーの狭量ぶりを象徴する事件が9月下旬に発生している。マッカーサーが金浦空港で朝鮮半島に所在する将軍たちと会見した時に、マッカーサーはウォーカーを無視する態度に出たのである。
ハルバースタムはこの件について、仁川上陸作戦に反対した人々はマッカーサーの洞察力に対する忠誠心の欠如のために無視される一方で、彼の作戦計画に賛成した人々は相応に報われることとなる事を示す典型例であったと述べている。
このような米軍内部の環境がマッカーサーの意見に盲目的に賛同する人々の立場を有利にさせる一方で、彼の見解と異なる発想を持つ将校を不遇な状態に置くこととなった。
本稿の主人公の1人であるウィロビーは、マッカーサーの仁川上陸作戦を計画当初から強力に支持しており、彼にが示した仁川上陸作戦の計画立案段階を通じてのマッカーサーに対する忠誠心は、ウィロビーがマッカーサーの司令部内で彼の地位を保持することを確実にし、極東軍司令官マッカーサーの意思決定に際し彼が影響力を発揮し続ける結果となった。
ソウルを奪還した米軍はトルーマン大統領の同意を得て、38度線を越え北朝鮮領内を北進した。1950年11月下旬までに、地理的に2つに分断された米第8軍と米第10軍団は、西は清川江から東は長津湖の線にわたって展開していた。
米軍兵士は5か月以上にわたる激戦の結果、疲弊していた。国連軍が平壌北方の険しい山岳地帯を越えて北朝鮮軍の敗残部隊を追撃して以降、戦争終結は目前であるかのように思われ、マッカーサーは朝鮮半島での最後の攻勢作戦を11月24日に開始する予定であった。
しかし、マッカーサーの攻勢作戦は、中国の大攻勢作戦がマッカーサーの戦争早期終結の望みを打ち砕くのとほぼ同時期に開始される運命にあったのである。
(以下次号)
(長南政義)