今もし支那から孔子や孟子を大将として、我が国へ攻めて来たならば、お前達はどうするか
<かやうに闇齋の學問は、人倫を重んじ、その人倫を重んずる當然の歸結として、革命を否定し、そして革命の行なはれた事の無い日本の歴史、日本の國體を讚へたのでありました。
山鹿素行が『中朝事實』の中で、「夫れ外朝、姓をかふること、殆んど三十姓、戎狄入りて王たる者數世、春秋二百四十餘年、臣子、その國君を弑する者二十又五、況んやその先後の亂臣賊子、枚擧すべからざるなり」と云つてゐるのと、全く同じ所に目を着けてゐるのであります。
それは平凡な事をあたりまへに述べてゐるのかと云ふに、さうではありません。
山鹿素行の述べた所も、山崎闇齋の説いた所も、その當時の學界では、驚くべき新説であり、破天荒の主張であつたのであります。
何分にも儒學は、もともと支那の學問でありますから、儒學者は萬事支那風に考へるやうになつて居り、孔子・孟子の説を無批判に尊んでゐました。
ある時、闇齋が弟子達にむかつて、
『今もし支那から孔子や孟子を大將として、我が國へ攻めて來たならば、お前達はどうするか。』
と尋ねたところ、弟子は皆な困つて返事する者が無かつた。そこで闇齋が云ふには、
『その時は、當然孔子や孟子と戰つて、或は斬り、或は生捕りにするのだ。それが即ち孔子の教だ。』
と教へましたので、一同始めて目が開いたといふ逸話があります。
無批判に外國の書物を讀んでゐると、此の弟子達のやうに、自主性を失つてくるのです。
その自主性を失つてゐたのは、此の弟子達だけでなく、藤原惺窩にしても、林羅山にしても、同樣でした。
羅山は、支那に生れないで、日本に生れた事を殘念に思ひ、せめて阿倍仲麻呂のやうに支那へ渡りたいといふ希望をもつてゐたが、「脚下の風波、千萬里」、遂に海を渡り得ない事を悲しんだといひます。
それ故に、闇齋や素行の學問が、自主的になり、日本の歴史に驚歎し、日本の國體を讚美するに至りましたのは、破天荒の事であつたのです。>
手元のノートに記録してあったことば。
たぶん、本の一文かネット上のコンテンツだったかと思います。
出典の記録を忘れてました。
もしご存知の方がいらっしゃれば教えてください。