新穂智少佐の西部ニューギニア横断記(4) Major Satoru Niiho’s West New Guinea
新穂智少佐の西部ニューギニア横断記(4) Major Satoru Niiho’s West New Guinea Cross Expedition
「私が戦犯者として死刑になった事については何等卑下する必要はない。和蘭軍が一方的形式的裁判で死刑にするのだ。私は皇国の為に活躍して来たのだ。反つてほこりをもつてゐ」—妻の敏子夫人宛の遺書。
「父は君が未だ母のお腹の中にある時に祖国を出発し、黒き雨降る南溟の地『ニューギニア』に転戦、皇国必勝の信念で最後迄戦ってきたが我が国の敗戦に終わった。そして明後日午前八時死刑を受け銃口の前に立つ。未だ君の顔も見ず死する事を残念に思ふ。そして何等父らしき事の出来なかった事を。母は非常なる苦労をして君を育てられるのだ。母の御恩を忘れてはならない」—未だ見ぬ子智忠君宛の遺書。
新穂智(にいほさとる)。大正5(1916)年5月、鹿児島県日置郡上伊集院村直木で8人弟妹の長男として生まれる。昭和13(1938)年7月、少尉任官。昭和14(1939)年8月、第一期生として、秘密戦士養成の陸軍中野学校を卒業。
陸軍参謀本部第6課に配属された新穂は、昭和16(1941)年末時点では、同盟通信社記者の身分でバタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ)に赴任していた。記者は隠れ蓑、実際は、スマトラ島の大油田地帯であったパレンバンとジャンビの石油事情調査が任務だった。
それ以前、新穂は秘密任務の命を受け、第二次「日蘭印会商」団に参加した。昭和15(1940)年9月~昭和16(1941)年10月、石油確保を目論む日本政府はインドネシアを植民地下におく和蘭(オランダ)との間で、石油鉱区、石油の輸入交渉を目指す「日蘭印会商」を二次にわたって派遣。新穂は、その第二次随行員として、他の中野学校出身者と共に加わった。日本陸軍は、開戦前の昭和15(1940)年に、すでに南方の石油資源確保を企図していたことが窺い知れる。
昭和16(1941)年12月8日。太平洋戦争(大東亜戦争)勃発。バタビアにいた新穂”記者”は、他の日本人同様に、オランダ当局に逮捕され貨物船でオーストラリアのラブダイにある抑留所へ移送された。しかし、抑留者交換に伴って、昭和17年(1942)9月、新穂は帰国。暫く中野学校で教官を務めていたが、昭和18(1943)年11月、アンボン経由で西部ニューギニアのホーランジア(現ジャヤプラ)へ。参謀本部直属の工作隊機関長としての命を受けた新穂大尉(当時)は、マノクワリ在の第2軍(豊嶋房太郎中将)隷下に、ホーランジアで「神機関」を編成した。
新穂少佐率いる「神工作隊」が、ホーランジア一帯の住民に対する宣撫工作に本格的に着手して間もなく、東部ニューギニアから飛び石作戦でやってきた連合軍は、昭和19(1944)年4月22日、ホーランジアへ上陸。退路を失った「神工作隊」は、人跡未踏の大河・マンベラーモ川の大密林・大湿地帯へと踏み込む。そして、河口まで直線距離でも500kmを超す、過酷な転進作戦。それは、まさに地理的探検と呼ぶに値する冒険行でもあった。
そして終戦。新穂は、部下が米軍捕虜を処刑したことを見逃したかどで戦犯に。軍事裁判を控え、新穂は、弁論資料として『西部ニューギニヤ横断記』を著した。5部作。昭和18(1943)年11月23日に始まり、昭和19(1944)年6月6日までのおよそ半年間の宣撫工作活動記録。それは単なる兵要地誌、日誌に留まらない。それは文化人類学的視点から現地の住民生活を描いた民族博物誌とも言える見事な内容。
オランダ軍による臨時軍法会議裁判で死刑判決。刑執行は昭和24(1949)年3月3日。祖国に妻子を残す33歳の若さだった。現在、妻子が暮らす横浜からほぼ真南へおよそ4,200km。赤道を越えたニューギニア島に瞑る故新穂智少佐。戦後65年。今となっては墓地の場所さえ判然としない。祖国日本の為に殉国の士となった新穂智少佐。中野学校の元教官・伊藤貞利は書く。「新穂智少佐は中野魂の結晶。秘密戦士の鏡。千古不滅の遺書を残した」と。(『中野学校の秘密戦』)。