トーチ作戦とインテリジェンス(25) 長南政義

2019年2月6日

【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回は、アフリカ機関を中心とする英国のインテリジェンス活動について、アフリカ機関と米国との関係を中心に考察を進めてみた。
1941年7月、英国は、アルジェリアを拠点とする、フランス領北アフリカにおける秘密インテリジェンス・ネットワーク確立のためにM・Z・“リガー”・スロヴィコフスキー(M・Z・“Rygor” Slowikowski)を派遣した。この時、彼につけられたコードネームが厳格なを意味する「リガー」(Rygor)であり、彼の機関につけられたコードネームが「アフリカ」であった。
ロバート・ダニエル・マーフィー、ウィリアム・A・エディー予備役海兵隊中佐およびリガーといった、フランス領北アフリカにおける連合国側のインテリジェンス活動を担当する首脳たちが顔をあわせた中で最も重要な会談の一つが、1942年8月上旬に開催された。
この会談では、彼ら各人がそれぞれのインテリジェンス・ネットワークにより収集・分析した情報に基づき、フランス領北アフリカの軍事・経済・外交情勢について議論がなされた。
リガーとアフリカ機関は、1942年11月上旬を通じて、ロンドン
および十二使徒に情報を提供し続けた。リガーは、ロンドンから来る
質問に回答し、アフリカ機関の協力者たちが収集した情報を分析し
続ける中で、連合国首脳部がトーチ作戦を計画中であることを早く
も察知した。
トーチ作戦開始前日の1942年11月7日の夜は、リガーとその
家族およびアフリカ機関の関係者にとって心配でたまらない一夜と
なった。リガーおよびアフリカ機関の関係者は、約1年4か月にわたり
フランス領北アフリカ全域の情報を収集することにエネルギーの大部分
を注いできたが、翌日にはこれまでの仕事の成果を目にできるはずで
あった。
今回は、アフリカ機関の終焉について述べたいと思う。
【トーチ作戦開始と共に市民生活へ完全復帰したアフリカ機関の協力者】
トーチ作戦開始日である1942年11月8日当日とそれから数日間
にわたり、リガーは、無線を通じてロンドンへとの接触を維持し続け
たが、連合国とヴィシー・フランスとの間の戦闘とは距離を置いた。
戦闘が開始してから間もなく、アフリカ機関の協力者たちは、本業の
市民生活へと戻り、再びリガーおよびアフリカ機関の機関員とは接触
を取ることはなかったのである。トーチ作戦における彼らの役割は
終わったのである。
【リガー、ロンドンへ帰還する】
11月下旬、フランス領北アフリカでの情勢が落ち着きを見せ始め、
ロンドンへの移動準備が完了するや、リガーはロンドンから英国本土
へ戻るようにとの指示を受けた。そして、12月下旬に、リガーは
英国本土へ帰還を果たした。
ロンドンへの帰路の間、リガーは、彼がフランス領北アフリカに
滞在中、英国のインテリジェンス活動のために働かされていたこと
に気づいた。歴史の結果を知る我々は、当然のことだと思うかも
しれないが、ロンドンからフランス領北アフリカへの派遣当時の
リガーは、トーチ作戦のことについて知らされておらず、フランス領
北アフリカ滞在中、リガーが命令を受けていたのは、ロンドンに在る
ポーランド陸軍の中央情報局からだったのである。
本連載で、英国がヴィシー・フランス内での一切の活動を禁止され
たことを指摘した。トーチ作戦までの北アフリカにおける英国の
インテリジェンス活動は、ポーランド陸軍の情報中央局を使用して、
ポーランドが実施する活動であるとの外観を維持しながら実施した
という点できわめて巧妙であった。したがって、ロンメル率いるア
フリカ軍団が連合軍により撃破され、南欧州に対する侵攻作戦の
準備が整った1943年春になりリガーのアフリカ機関は正式に閉
鎖された時に、リガーの活躍に対し酬いたのは英国と米国であった。
【無視されたアフリカ機関の功績と伝記や回想録に混在するバイアス】
1941年7月から1942年12月の間に、アフリカ機関によって
提供された情報は、トーチ作戦を準備計画した連合国軍の上層部に
より信用され活用された。しかしながら、ウィリアム・ランガーが
執筆したトーチ作戦の外交面に関する研究書『われわれのヴィシー
・ギャンブル』(原題:Our Vichy Gamble)内で言及されている数行
を除くと、どの関係者の自伝・伝記・公式記録を繙いても、アフリ
カ機関の貢献に関する記述はほとんど登場しない。では、その理由は
どこにあるのだろうか。
一つ目の理由として考えられるのは、ヴィシー政権が存続し枢軸国
よりであった時期に、自国民が連合国側に情報を提供していたとい
う事実を、フランス政府が戦後の長い間、認めたがらなかったため、
英米の関係者もフランスに配慮して記述を控えた可能性だ。
第二の理由として考えられるのは、OSSが、インテリジェンス活動の
分野で、リガーおよびアフリカ機関ほど優秀でなかったため、トーチ
作戦に関する情報のすべてをOSSが収集したとの印象を植え付けよう
とした可能性である。
本連載で考察してきたアフリカ機関の情報収集能力の高さを考える
と、アフリカ機関が登場しないワイルド・ビル・ドノヴァンの回想
録や伝記もしくはOSSの文書類には、米国の働きを過大評価する方向
のバイアスが入っている点に注意して読む必要があるといえるだろう。
【“リガー”・スロヴィコフスキーのその後】
では、アフリカ機関閉鎖後のリガーの後半生はどのようなものであっ
たのだろうか?
先に言及したように、リガーの功績に真っ先に酬いたのは、英国政
府および米国政府であった。1944年3月28日、英国王ジョー
ジ六世が大英帝国勲章を、合衆国大統領フランクリン・ルーズヴェ
ルトがレジオン・オブ・メリット勲章をリガーに授与した。
大英帝国勲章は、1917年にジョージ五世が創設した勲章で、
もっとも叙勲数が多い勲章として知られている。日本でも俳優の
真田広之氏や演出家の蜷川幸雄氏などが授与されてニュースになっ
ているのでご存知の方も多かろう。一方のレジオン・オブ・メリッ
ト勲章は、第二次世界大戦中の1942年7月に、ルーズヴェルト
大統領の大統領令によってつくられた勲章で、戦闘において顕著な
功績を挙げた軍人に対して授与される勲章だ。
リガーは、ポーランド軍陸軍少将の地位まで出世したが、1947
年に退役している。退役後のリガーは、70歳までイングランドの
金属研磨工場で勤務した後、92歳の時に本連載でも使用した回想
録を執筆した。そして、1989年、ロンドンで93歳で逝去した。
(以下次号)
(ちょうなん・まさよし)