トーチ作戦とインテリジェンス(5) by長南政義
【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回は、トーチ作戦開始までのフランスをめぐる国際情勢について話をした。
独仏休戦協定により、フランス領は、アルザス・ロレーヌのようにドイツへ割譲された地域と、フランスの主権が認められたもののドイツ軍が占領し軍政をしく「占領地域」、ヴィシー政府が主権と施政権を有する「自由地域」などに分割された。
フランスは、領土だけではなく、政治・軍事の指導者たちも、シャルル・ドゴール率いる自由フランス支持者とペタン率いるヴィシー政権支持者とに分裂した。ドゴールは、英国との外交関係を維持し、イングランドに自由フランスの本拠地を置いた。しかし、ドゴールには弱点があった。ドゴールは、英国国外のフランス人政治指導者やフランス人将校にとってあまり知られていなかったのである。
連合国によるフランス領北アフリカ侵攻計画には問題点が存在した。すなわち、フランス領北アフリカの将校たちは、1852年以来のフランス最古の同盟国であった英国を信頼していなかったのである。というのも、英国は、将校たちの支持が低いドゴールを支援しており、メルセルケビールでフランス艦隊を攻撃したからである。
したがって、必然的にフランスの選択肢は限られていた。すなわち、1941年12月まで中立国であった米国に期待するほかなかったのである。
今回は、フランスの政治的キーパーソンの説明をしたい。
【フランスの要人たち】
本連載を読み進める上で、フランスの政治的重要人物が、連合国、ヴィシー政権、枢軸国のどこを支持していたのかを理解することが重要である。彼らが、トーチ作戦の計画立案・実行のために必要な情報収集に関係してくるため、フランス側要人の政治傾向を知ることが必要なのだ。
残念ながら、日本語で読める文献では第二次世界大戦で活躍したフランスの軍事指導者に関する記述が少ないため、第二次世界大戦期のフランス軍人たちの人名や略歴の知名度は低い。そこで、彼らの役職・経歴と支持傾向を概観してみることとする。
【フランソワ・ダルラン ~対独協力者から日和見主義者に転じた男~】
フランソワ・ダルランは、1939年に海軍元帥に昇進し全フランス海軍の指揮権を与えられていた人物である。ダルランはヴィシー政権の国家元首であるペタン元帥を支持した人物の1人であり、その功績のため海軍大臣のポストを与えられていた。1941年2月には副首相に就任し、その後、国防大臣、内務大臣および外務大臣を兼務するなど、ヴィシー政権の大物であった。
ダルランは英国嫌いとしても有名であり、また枢軸よりの人物であった。フランス現代政治史研究者の村田尚紀の研究によれば、ダルランは、「ラヴァルに卵をくれというと卵しかくれなかったが、ダルランはニワトリをくれた」といわれるほど、ドイツに好意的な協力を行ったといわれており、5月にはヒトラーと会見してパリ議定書を締結するなどヴィシー政権とドイツとの政治的同盟関係構築に貢献した。
しかし、ドイツ政府は、ダルランを日和見主義者とみなしており、「従順な忠義を装っている」との疑惑を持っていた。確かに、初期の頃と違い、時間の経過と共に、ダルランの胸中は動揺し始め、周囲からは、もし連合国が有利になったら、ダルランは勝者の側につくだろうと見られるようになっていた。
ヴィシー政権下でダルランは海軍大臣および国防大臣を務めていたため、フランスの軍事指導者たちの間でダルラン支持が強く、したがって、連合国が北アフリカ侵攻作戦を成功させるためには、ダルランの態度が極めて重要であった。
【フランス領北アフリカのフランス陸軍総司令官アルフォンス・ジュアン】
アルフォンス・ジュアンは、アルジェリア生まれの陸軍将校である。ジュアンは、ドイツによるフランス侵攻作戦の当時、第15機械化歩兵師団の師団長であり、リールでドイツ軍に降伏し戦争捕虜となった。1941年、ジュアン将軍はヴィシー政権の要請で釈放され、フランス領北アフリカのフランス陸軍総司令官に任命された。
この略歴からもわかるように、ジュアンはヴィシー政権との関係が強い人物であったが、枢軸国に対して反感を持っていた。ジュアンは、ドイツ軍がフランス領北アフリカに侵攻した場合の秘密作戦計画を準備していたが、表面上はヴィシー政権に反抗しなかった。
1942年11月に、英国および米国の連合軍がアルジェリアおよびモロッコに侵攻すると、ジュアンはヴィシー政権を裏切り、チュニジアに駐留するバレ将軍指揮する部隊にドイツ軍およびイタリア軍に抵抗するよう命じた。
第二次世界大戦中、ジュアンはイタリア戦線でフランス遠征軍を率い山岳戦で活躍した。大戦後の1967年、ジュアンは元帥に任命されたが、死後の名誉昇進ではなく、生存中に元帥に昇進した最後のフランス陸軍将校であった。
【その他の重要人物】
オーギュスト・ポール・ノギュエ将軍は、モロッコ総弁務官であり、ヴィシー政権に近い人物と見られており、反ヴィシー政権派の人々からは人気がなかった。モロッコ総督であった関係でモロッコの現地住民に非常に影響力があり、連合国よりの人物であるとも見られていた。
アントワーヌ・ベソート少将は、大戦中の1940年、ノルウェー戦役で第1軽歩兵師団を指揮しナルヴィックの戦いで活躍した将軍である。その後、彼は、モロッコでカサブランカ師団の師団長となり、1942年に連合軍が北アフリカに侵攻すると、モロッコに駐屯するフランス軍部隊が連合軍側に結集することを手助けした。
1942年11月10日に、彼はヴィシー政権の官憲により逮捕されるが、11月14日に連合国により解放された。その後、彼は、1942年12月から1943年11月までワシントンに派遣されたフランス軍事使節団の長を務めた。1944年以降は、フランス国防委員長やフランス第1軍の母体となったB軍団の司令官などを歴任した。
彼はその経歴からもわかるように、連合国よりの人物で、米国の外交官ロバート・マーフィーと接触している。彼は、終戦後にオーストリアを占領するフランス軍の司令官であったため、オーストリアのインスブルックには彼の名前をつけた橋が存在する。
このほかに、アルジェリア師団の師団長を務め、連合国よりの人物として、ロバート・マーフィーやアンリ・ジロー将軍と接触したシャルル・マス少将なども有名である。また、アルジェリア総督のシャテルは新ヴィシー政権派の人物であった。
【誰が敵で、誰が味方なのか? ~フランス側要人の向背が不明であったことがもたらした混乱~】
ベソートのような例外もあるが、上記で紹介した人物は、各人が属す指揮系統を通じて命令を受けていた。換言すると、ヴィシー政権の国防大臣であったダルラン経由で国家元首たるペタンから命令を受けていたわけである。彼らは、米国を含むいかなる侵略者が侵入してくるのを喜んで迎える気など毛頭もなかったが、指揮系統を通じて下された命令に基づく場合は、米国と協同する意志があった。
フランス側の指導者のうち誰が味方で誰が枢軸支持者かという問題は、トーチ作戦の計画立案および作戦実行の全期間を通じて、重要な問題であり続けた。連合国側のインテリジェンスおよび外交的努力は、この答えを見つけ出すことに集中されたが、答えを見つけ出すのは容易ではなかった。
長い時間をかけた情報収集活動にもかかわらず、アルジェリアにダルランがいたことを、連合国が知ったのは、侵攻直前の数時間前であった。連合国がこのことを予想していなかったため、ロバート・マーフィーは計画のいくつかを修正せざるを得なかった。ダルランは、連合国による侵攻作戦とそれに対するフランス側の抵抗を考える上で重要な人物だっただけではなく、残存するフランス艦隊の動向を考える上でも重要な人物であったからである。
フランス領北アフリカに関係する指導者たちの向背が不明であったため、北アフリカにおける連合国の戦略情報収集は、困難を極めた。ヴィシー政権とこれら指導者たちとの間に存在した内紛は、枢軸国にとってはフランス領北アフリカを統制することを容易にするという意味で有利な要素であったが、逆に連合国にとっては外交面でもインテリジェンスの面でも混乱をもたらす不利な要素であった。
次回は、トーチ作戦開始までの米国の動きについて説明したい。
(以下次号)
(長南政義)