特別版 沖縄県と軍事史 (荒木肇)

2019年2月6日

ご挨拶とご紹介
 創立60周年観艦式も終わり、いよいよ来年は陸上自衛隊の番ですね。今回の観艦式ではヘリ搭載護衛艦「ひゅうが」の艦上から、同型艦「いせ」から発艦する対潜水艦ヘリの展示訓練を見られました。艦内は大きく、広く、さすが飛行甲板も200メートル級の大きさでした。また、新しいスターリング・エンジンを積んだ潜水艦「けんりゅう(2950トン)」の雄姿も見られました。
 3隻からなる単縦陣の護衛隊が一斉回頭しました。また隊列を組み直すシーンなどさすが一流海軍のすごさを見せつける演出。素晴らしいものでした。「あきづき」もその姿はまさに優美な中にも勇ましい日本の軍艦らしく目にいつまでも焼きつきました。
 さて、話題の「オスプレイ」について並木書房から新刊(『海兵隊とオスプレイ』)が出ました。先日、お友だちの桜林美佐さんが、ご一緒のある紙面で、「A面とB面」というたとえ話の名文を出されました。あまりに世の中に的確な警鐘を鳴らされているので、ちょっと引用します。
 古い話題ですが、昔、A面とB面がレコードにありました。A面の方がもちろん世の中の報道などではメインなのですが、桜林さんは原発、オスプレイ、防衛省の談合問題などについてB面を語っています。原発廃止といえば格好いいけど、その裏にはエネルギー問題をどうするといった現実的な状況がある。オスプレイも同じこと。防衛省の談合も防衛産業の特殊性を考えること。などなどが淡々とした筆致で書かれていて感心しました。
 そこへタイミング良く、アメリカ軍についての情報通であられる北村淳氏が「オスプレイ」について書かれました。写真も多く、同機の開発の経緯や運用方法、実際の姿がよく分かります。軍事マニアでなくとも、手にとれば正しい情報が手に入る。お勧めします。
 13日は神奈川県座間市にあるキャンプ・ザマへお邪魔しました。米軍基地の中に陸上自衛隊の施設群(工兵連隊)が同居して、分屯地といわれています。その第4施設群の創立記念日でした。基地の内部は建設工事があって、車両行進や展示訓練は見えませんでしたが、よくひきしまった内容だったと思います。米軍司令官もお顔を見せ、米陸軍軍楽隊が両国国歌を演奏し、部隊の入場も彼らのドラムです。
 実は、多くの隊員やOBにとって感慨深いのは、今回が分屯地創立記念日の最後になることです。というのは、朝霞にある中央即応集団(セントラル・レディネス・フォース)の司令部が来年3月に移駐してくる予定になっています。中即応とは、隷下にヘリ団、空挺団、即応連隊、中央特殊武器防護隊などの部隊をもって、国際、国内の有事や災害派遣などに即時に応ずる任務を持っているのです。司令官は陸将、副司令官は国内、国際の2人の陸将補がいます。そして、分屯地から駐屯地への格上げになるのです。
 そうなると駐屯地の記念日もCRFに合わせることになるのではないか。寂しい思いをいっぱいする方もおられるのでしょう。祝賀会食には大勢の座間市会議員の方々がお見えになっていました。地元サービスを重視したよい企画でした。
 今回はちょっと兵站をお休みして、沖縄県と軍事史について思いつくままに書いてみます。
徴兵忌避者は北海道や沖縄に転籍した
 文豪夏目漱石が徴兵逃れのために北海道に本籍を移した。これは有名な事実であり、現に北海道のその町では資料館のようなところに展示がしてある。先日、日曜日にテレビを見ていたら外国籍の某東大教授がそれを見て、「反戦の意思が文豪には高かったのですね」と褒めていた。ちょっと待ってよ・・・と思わずテレビに話しかけてしまった。
 多くの人はそういうことはしなかった。できなかったとも言える。それじゃあ、そういう才覚も財力もなく、おとなしく徴兵されて戦死したわがご先祖は「好戦的」で非文化人だったのか。
 徴兵令制定当初、北海道居住者と沖縄人には徴兵の義務がなかった。徴兵令が適用されなかったからだ。それに関連して、多くの本土人が沖縄や北海道に転籍したのは事実である。徴兵令は1873(明治6)年1月10日、制定発布された。わが国近代史上、画期的な出来事であり、以後、近代化の大きな推進機に陸海軍はなった。
「四民皆兵」といい、あたかも大軍事国家、帝国主義の最先端のように教科書には書いてあるが、実際の入営者はごくわずかだった。6鎮台の定員が3万1180人、1年で1万560人しか新兵にならなかった。73府県だから平均すればそれぞれで144人。これでは、まったく名のみの皆兵である。
 官吏、公吏は免役。官立公立学校生徒、医科学生、戸主、嗣子、承祖の孫、独子独孫、代人料を270円納めた者、外国留学者、在役者の兄弟などみんな兵役がない。明治7年の数字だが、壮丁(徴兵検査受験者)が27万3293名に対して、現役兵は1万4461人しかいないのだから、割合では5.3%である。
 この他には北海道と琉球が徴兵令の適用外になっていた。この2つの地方に本籍がある者は徴兵に応じる義務がなかった。琉球について歴史を確認してみよう。
 1871(明治4)年には廃藩置県がされた。琉球国は鹿児島県の所管になったが、翌年、国王の尚泰王は琉球藩主になった。そして、華族になる。ただし、ここでいう華族は近代制度の中の華族ではない。公爵や伯爵といった爵位を持つ人や、そのファミリーの一員である華族ではなく、まだ旧堂上公家や門跡、大名家の人々をいう。
 1875(明治8)年には、清国に対するこれまでの関係を絶つようにされた。島津氏の支配を受けながら、清国に従うという立場をとっていたからだ。当然、古い制度に対して懐かしむ、現状維持派も多く、藩の中でも大さわぎになった。清に今まで通り隷属した方がよいという人たちの中には清国や列強に働きかける人たちもいた。そこで、政府も1879(明治12)年には琉球藩を廃止し、沖縄県とした。
 最近のアメリカ映画「ザ・パシフィック」の中でも、若い米兵の1人が、『オキナウィーズはジャパニーズじゃない』と語るシーンがあった。これは、そのアメリカ人の偏見だけではなく、おそらくそうした親清派が昔おこなった独立運動の記憶が一部のアメリカ人にあったのではないかと私は考える。
 沖縄県に初めて徴兵令が施行されたのは1896(明治29)年からになった。ようやっと日清戦争後に、沖縄の若者は国民軍に加わるようになる。この時の制度は、戦後の1895(明治28)年3月13日の改定によった。
 すでに悪評が高かった代人料270円を納入する免役は、1883(明治16)年に廃止された。ただし、看護卒を志願する者は経費自弁の上、1年間の服役で済む「志願兵」といった制度はここで設けられた(ただし、中等以上の学歴所有者)。
 1889(明治22)年には、免役制度そのものが心身に不具合のある者以外は全廃。教員や学生、生徒への猶予も「延期」になっただけである。のちの時代でいう「徴集猶予」になったことをいい、卒業したり、学籍を失ったりすれば、ただちに徴兵検査を受けることとされた。そして、この年、予備役幹部養成の1年志願兵制度が発足した。
 夏目漱石が嫌がったのは、このシステムである。17歳から26歳以下の中学校卒業程度の人は経費を自弁して、1年間の現役を務める。この間に次々と進級し1年で軍曹になる、その後、勤務演習3カ月に参加して予備役少尉になる方法だった。彼のような帝大卒のインテリにとっては、1年間とはいえ「野蛮な軍隊生活」などとても受け入れられなかったのだろう。
奄美大島要塞
 奄美大島を中心にした群島は沖縄県には入らなかったが、琉球国の一部だった。この琉球国の版図の中で、大東亜戦争の前に常備軍がいたのは奄美大島要塞だけである。
 奄美大島要塞は1920(大正9)年8月に築城部奄美大島支部が設置された。この築城部という組織についてはいつか書こう。築城工事実施命令が出たのはこの年12月のことだった。初めて九州から台湾までの群島に初めて軍備がされるようになった。
 わが国の要塞は、主に海峡防護、軍港防衛のためである。東京湾(横須賀に司令部)、父島、由良(和歌山)、豊予(佐賀の関)、津軽(函館)、下関、広島湾、対馬、佐世保、長崎、壱岐、舞鶴、鎮海湾、永興湾、基隆(台湾)、澎湖島、旅順などだった。
 第1次大戦後の平和ムードが高まっていた中で、どうして要塞が新設されたのか。おそらく対米戦争を予期してのことではなかっただろうか。そのころ、日米両国は大艦巨砲主義をとって、建艦競争の時期に入っていた。軍艦「長門」は世界最強といわれ、第2艦「陸奥」も造船台の上で完成を待つばかりといった時期である。
 南西諸島の防衛のために、九州と台湾の中間点に要塞を設けることは当然のことだっただろう。1921(大正10)年7月から建設工事は行われた。ところが、ワシントン条約が締結されたのが翌年の3月である。工事は中止したが、1923(大正12)年4月、奄美大島の古仁屋に奄美大島要塞司令部が開かれた。初代司令官は陸軍砲兵中佐である。
 代々の司令官は砲兵中佐、同大佐である。要塞重砲兵の教育を受けた人たちだった。奄美大島要塞は1940(昭和15)年になって、規模が拡大された。このあたりは、要塞史に詳しい方がおられる。筆者はあまり調べていない。
要塞司令部
 対馬要塞とか、東京湾要塞などというと、私たちは旅順要塞の民族的記憶が大きいせいか、とんでもない西洋式の大型城郭とか、砲台の群れを想像してしまう。ところが、わが帝国陸軍の要塞はそんなものではない。司令官は平時には『要塞ではなく用ない司令官』、参謀は『用ない参謀』などと陰口をきかれているような閑職だった。
 平時の要塞には司令部職員(10数人)と砲台の監守にあたる数人の下士官といった人数しかいなかった。わが国の作戦思想とは、伝統的に外線作戦であり、渡洋作戦であり、要塞を第一線にして内地を防御するといった考えに乏しかった。「専守防衛」とは昔の陸海軍も言っていたところだ。内地に手を出したらひどい目に遭わせようというより、先に敵の策源地を、戦力を叩こうというのが本旨である。
 要塞司令部の職員の定数を見ると、参謀、副官が1名ずつ、砲兵部員、工兵部員が各2名、主計1名、下士官が8名ほど、その他雇員、傭人といった下級軍属が数名。そして、常設砲台を監守する下士官が1名ずつといった配置だった。戦時になって、動員が下令されて初めて、戦時編制の要塞兵力が集まることになっていた。
奄美群島の守備
 大東亜戦中に奄美大島には独立混成聯隊が置かれ、続いて重砲兵聯隊が守備についた。サイパンが失われると、いよいよ南西諸島に米軍が来る。そこで、1944(昭和19)年7月には、独立混成第64旅団が配備された。
 歩兵が主力で砲兵と工兵の2個独立混成聯隊、重砲兵聯隊、3個特設歩兵隊、特設警備工兵隊、有線通信隊、無線通信隊、航空関係9個隊、暁部隊(船舶工兵)の5隊、海上挺進隊(人間魚雷か?)、基地隊、海軍高射機関銃隊、要塞建築勤務隊、兵器廠、貨物廠、2個病院などなど、これでも落ちがあるだろう。大小様々な陸海軍部隊が奄美大島にいた。
 主力を置いたのは徳之島である。群島の中でただ一つ、陸軍航空の飛行場があった。初めは航空基地防備が主任務だったが、いよいよ米軍の来寇が予想され、戦闘司令所も徳之島の大和城山に置かれた。
 10月10日には、朝から空襲があった。学校、工場、各部落など被害がたいへん大きかった。徳之島の飛行場もひどくやられたという。しかし、陸海軍の人員の被害は意外に少なく、アメリカ兵を一歩も守備地域には入れなかった。
 自衛隊を南西方面に送れという声がある。過去の歴史をひもといてみると、いろいろなことが見えてくる。
(以下次号)
(荒木肇)