雑卒(ざっそつ)が脚気に多くかかった-誤りを認めた森軍医総監 (荒木肇)

2019年2月6日

From:荒木肇
件名:雑卒(ざっそつ)が脚気に多くかかった-誤りを認めた森軍医総監
2012年(平成24年)9月19日(水)
はじめに
 尖閣問題で大さわぎのマスコミ界です。
同じように、新聞では川崎重工と防衛省技術研究本部の「天下り」とか「談合」とか書いています。意図的にこの時期に自衛隊への信頼感を落としこみ、ひいては新型多用途ヘリの開発を遅らせようとしている人たちがいますね。産経新聞すら同じです。『話し合いなにが悪い-癒着の構図』ですから。中には「馴れ合いの構図」とかまでの激しい言葉を使っています。でも、兵器開発や防衛技術の実態は防衛記者なら知っているはずです。
 防衛技術は長い間の蓄積でできています。現場で働き、それを使って生命を守る現場の自衛官たち。戦場での使いでや、要望をもっともよく知る専門家が防衛産業に行かなくてどう開発が進むのか。それを「天下り」とか「癒着」などという世間の正義派向けのキャッチコピーを使いつづけるマスコミ。いい加減に気分が悪くなってきます。防衛省も大人ですから、そういう連中にも出入りを許し、特権も与えてきましたが、そろそろ考え直す時期が来たのではないでしょうか。自分のメシのタネのためにきちんと事実関係を書かない。恥ずかしくないかと思いますが、多くの(全員ではありませんよ)マスコミ人は、もともと恥を知らないのでしょう。
 いや、そんなことを言うと、防衛省ではお前こそ世論と対立する構図をあおるのかと、私が出入り差し止めになってしまうかも知れません(笑)。私などはたいした論客でもないし、影響力もろくにありますまい。
 テレビでは、あの談話で有名な河野某や、陰謀好きの古い評論家佐高某、毎日新聞の平和論者が、したり顔で日中問題の大人の解決を述べています。興味深いですね。誰も最前線で支那のグンカンと対峙する保安庁の皆さんのことは心配しない。安全地帯に必ずいる論客ばかりです。ナショナリズムが危険だ、では、在留邦人が傷つけられ、安全が保障されなくなったら。上海には5万人以上の邦人がいるそうですね。ご家族や親せきがおられる方に心からお見舞いを申し上げます。どうか、一刻も早い撤収を。
 ベー様、ご疑念にお答えできなくて申し訳ありません。陸軍士官学校の同窓会名簿を丹念にあたって数字を集めるしかないと思います。九段の偕行社文庫に行かれれば残っているかも知れません。
おそらく、すでに卒業して参謀配置に着いていた人はともかく、現場の戦時補職をもっていた人たちは配慮も間に合わなかったと思います。おじい様が陸大17期の御卒業とか、無事に凱旋されたのでしょうか。私の曽祖父は砲兵で戦死しました。
輜重輸卒は雑卒の一つ
「輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならばチョウチョ、トンボも鳥のうち」というざれ歌を知っている方も多いことだろう。輜重兵科のうちにありながら階級は兵卒等級では3等。各兵科2等卒と同じである。兵卒の階級は武官(伍長以上)と異なっていて、『陸軍兵卒等級表』に示されている。兵の1級は各兵科上等兵、2級は1等卒、3級は2等卒。その3級の中に、輜重輸卒、砲兵輸卒、砲兵助卒がのっている。2級にも1級にも記載がない。
ということは、どれだけ軍務に精励しようと、経験を重ねようと決して昇級しない立場だった。
 経理部にも2級に1等縫工(ほうこう)、3級に2等縫工、同じく靴工(かこう)卒がある。彼らは上等兵になることはないが、1等卒同等には進級できた。衛生部の3等には看護卒があったが、彼らは教育を受けると直ちに上等兵と同等の看護手(かんごしゅ)になれた。
 縫工卒は被服や天幕などの修理、補修にあたる。靴工卒も同じく主に靴、皮革製品の修理、補修をした。兵卒の中では「職工」ともいわれた。これらの多くの人は、徴兵検査の時点ですでに前職などから、あらかじめ決められていたといっていいだろう。
 輜重輸卒も砲兵輸卒も、同助卒も決して進級しない。ずっと下積みだったわけだ。砲兵輸卒という名称が珍しいかも知れない。日露戦争当時、弾薬の補充は砲兵隊の担任であり、歩兵隊は小銃弾薬も師団弾薬大隊から支給された。この大隊は人員864名。砲兵少佐が指揮をとった。将校・准士官が14名、下士35名、兵卒260名、それに砲兵輸卒が533名。他に22名の各部将校相当官などがついた。
 歩兵弾薬縦列(じゅうれつ:中隊規模)2個、砲兵弾薬縦列3個からなる弾薬大隊は、主に糧食を運ぶ輜重兵大隊とは別の組織である。この弾薬大隊の構成員の61.7%が輸卒だった。
 輜重輸卒は輜重兵大隊(糧食4縦列で構成)に主に所属した。この大隊は1457名という大所帯である。将校・准士官は14名(これに各部相当官13名が加わる)、下士38(各部下士が9名同)、輜重兵卒118名(各部兵卒29名同、ただしうち25名は従卒と馬卒)、そして輸卒1246名である。構成員の中での輸卒の比率は、実に85.5%を占めてしまう。
 なお、砲兵助卒というのは、内地の要塞砲兵の弾丸、装薬運びなど雑役に従事する卒だった。これら砲兵・輜重兵輸卒、砲兵助卒を称して雑卒(ざっそつ)といった。
野戦師団の編制について
 ここで前回に引き続き、さらに制度の話をさせてもらいたい。私は日露戦争とは「先人たちと馬たちの汗と血の戦争」だったと思っている。勇ましい槍先の話、野戦部隊の戦記や戦闘描写も大切だが、それを支えたのは後方にいた人たちの汗と血である。
 常設師団1個が動員されると、野戦師団、野戦電信隊、兵站諸部隊の動員が同時に行われた。動員とは、軍隊が戦時体制に入り、戦時編制になることをいう。逆に、平和に移行して平時体制にもどることを復員といった。
 この他に野戦師団への補充を行う留守師団、それに後備部隊、臨時特設部隊、補助輸卒隊、国民兵隊などの編成も実行される。
 では、こうした動員がされたときの在郷軍人の召集はどうするか。『陸軍召集条例第15条』には次のように決められていた。
『充員召集トハ動員ニ方リ諸部団隊ノ要員ヲ充足スル為在郷軍人ヲ召集スルヲ謂フ』、そして第19条には『召集ハ動員令ニ依リ之ヲ実施ス』とある。戦時召集には、この充員召集と補充召集(充員召集をしても欠員が出たときに行う)、国民軍編成のための国民兵召集があった。
 在郷軍人とは、『休職停職予備後備役将校同相当官准士官、予備役後備役下士兵卒(雑卒職工ヲ含ム)及帰休兵並ニ補充兵ヲ云フ』という定義に尽きる。
 なお、当時の兵役は現役3年、予備役4年4カ月、後備役5年というしくみだった。補充兵は補充兵役に指定され、12年4カ月が服役期間だった。現役入営が決まれば12月(のちには1月)に指定された兵科部隊に入営する。そこで基礎訓練を受けて、1年後には後輩が入ってくる。補充兵は教育召集があるだけである。入営しても3カ月、これで既教育(ききょういく)となり、家に帰ることができた。
 日露戦争直前のころ、壮丁(徴兵検査を受ける者)はおよそ52万人、現役兵は5万4000人くらいだから、ざっと10人に1人が入営すると思っていい。甲種合格はだいたい上位の3人くらいだから、籤をひいて、残る2人は補充兵になった。これとは別に雑卒は乙種、丙種の人たちが指定を受けていた。輸卒の制度は日清戦争にはなかった。民間から、あるいは現地で人夫を雇ったため、たいへん不都合だらけだった。そこで、軍人にしておこうとつくったシステムだから、戦争が始まるまで、誰もその悲惨さには気づかなかった。
 歩兵聯隊の平時編制定員は1800名。これが動員されると戦時編制になる。各部や配属の輜重兵を除けば兵卒定員が2400名になる(3個大隊、すなわち12個中隊)。計算上、1200名の現役兵に加えて、1200名の予備役兵の召集が必要だった。さらに、実際には内地に残す補充大隊に新入隊兵・召集した補充兵の教育のため、現役兵を少しは残すことになる。
 野戦師団には支援部隊がふくまれる。工兵材料の運搬にあたる架橋縦列(がきょうじゅうれつ:架を「が」と読む)、それに輜重馬の管理をする馬廠(ばしょう)、衛生隊、野戦病院4個がそれらである。架橋縦列は63名の工兵を主体として、輜重兵の輸卒237名をふくんだ人員合計344名の部隊。馬廠は兵科将校准士官、下士兵卒57名と輜重兵科50名(前同輸卒46名)と各部の人員を合わせた112名。衛生隊も兵科将兵376名と輜重兵48名(前同輸卒44名)、ほか各部の63名を加えた487名。そして野戦病院は兵科兵卒24名と輜重兵135(前同123名)と医官その他で247名、合計406名だった。
 こうしてみると、野戦師団の1万8689名のうち、砲兵輸卒758名、輜重輸卒は各隊配属もいれて2656名にもなる。これは全体の中で18.3%をしめた。これに野戦電信隊、兵站諸部隊の輸卒503名をあわせると、砲兵輸卒835名、輜重輸卒3159名となった。2万106名のうち、砲兵輸卒は4.2%、輜重同は15.7%になった。
輸卒と作家
 当時の計算では、散兵線を構成する小銃数はざっと1万人とされた。そこで、師団の担当の正面幅は、この兵卒の散開間隔に1万を掛け算した距離になった。およそ、野戦師団の全構成員の57%が戦闘に直接参加するだけで、通信・兵站諸部隊を入れてしまうと、かろうじて5割に達するほどでしかない。火力を発揮する砲兵、騎兵、歩兵戦闘も行える工兵を加えても7割くらいしか戦闘専門の兵はいないということになる。
 輜重輸卒とは馬方(うまかた)である。あるいは輜重車を引き、押し、荷物をかつぎ、自分の背中を使って物資を運ぶ人夫(にんぷ)である。現役に指定されても、他の兵科兵が3年間の在営義務があるのに、輸卒は3カ月の教育訓練がすめば、帰休することができた。補充兵の輸卒になれば、まず、軍隊に行くことはないと思われただろう。
 対して指揮をとる輜重兵は乗馬した帯刀本分の戦闘専門職だった。その教育は戦闘訓練では騎兵に変わらず、腰には長い騎兵刀をさげ、背中には騎兵銃を斜めに負った。入営したとたんに乗馬服と長靴を与えられ、腰にサーベルを下げ、2等卒でも指揮能力を高める教育がされた。
『馬匹ノ取リ扱ヒニ慣レ算術ニ優レタル者』が徴兵検査で選ばれたらしい。もちろん、体格もいい。足が長くなくては乗馬に不便であるから、背の高い人が多かったらしい。のちの昭和になって、輜重輸卒は輜重特務兵と名称だけが変わった。
 文豪水上勉といえば「雁の寺」などで知られる作家だが、彼には軍隊体験を材料にした『兵卒の鬣(たてがみ)』という作品がある。昭和47(1972)年には吉川英治文学賞をとった。
 1944(昭和19)年5月、突然、召集令状が舞いこんだ。村の兵事係が届けてきたのである。徴兵検査は丙種合格だった。だから、戦場に出ることはあるまいと考えていた。令状によれば京都府下墨染(すみぞめ)にある輜重兵聯隊に入営せよというのだ。日露戦争に行った父親はつぶやいた。『輸卒か、あかんなあ』、水上はいう。『○特って書いてある』。○の中に特とあった。特務兵のことである。もっとも、その頃には輜重特務兵という名称もなくなって輜重兵と一緒になっていた。しかし、マルトクは昔の輸卒のことである。
 教育隊の班長(助教)は「博労(ばくろう)上がり」の召集下士官だった。同じく教育掛助手の上等兵2人も召集兵である。3人は乗馬長靴をはいて腰に指揮刀を吊っている。入隊兵は銃剣を吊るだけで騎兵銃もわたらない。馬の世話から始まり、訓練はほとんどが荷造りと駄載、荷ほどきと荷おろし。同僚たちはほとんどが体力もない。馬は暴れる、ひきずり回される。とうとう蹴られて死んでしまう者も出た。
日本苦力兵(クーリーピン)と脚気
 支那では当時、肉体労働をする人たちを苦力(クーリー)といった。わが輜重輸卒たちは、現地の支那人から、その体格の貧弱さと服装の貧しさをバカにされ、苦力兵と呼ばれたという。
『本来、家にいれば立派な主だっただろう中年の商店主や、筆をとってしゃれた服装で歩き回っていただろう新聞記者、あるいは角帽をかぶって書籍を読みふけっていたような学生、ひよわな若旦那などが、ぼろぼろの服を着て満足に靴もはかず、泥道で苦闘している。とても気の毒で見ていられない。しかも、現地の支那人はそうしたわが同胞の姿を見て、指差して笑うのである』
 というのが、下士待遇で取材していた従軍記者の描いた輸卒である。そして、脚気の罹患(りかん)は歩兵にも多かったが、実は輜重輸卒が最も率としては高かった。
 野戦衛生長官がつくった報告書がある。それによれば、歩兵の脚気患者数は明治37(1904)2月から翌年3月までに約4万1000人、輸卒は3万600人である。この患者数だけでいえば歩兵の方が多い。しかし、歩兵は分母が大きい。患者数の全体にしめる比率は1.88%であり、輸卒のそれは5.32%にも上るのだ。しかも、各月別で統計をとれば、兵員1000人あたりで、37年8月には歩兵は44.4、これに対して輸卒は117.7という高い率を示している。
 輸卒隊の厳しい環境、過酷な労働と一口にいうものの、その状態を表すものはほとんど残っていない。輸卒になった人たちは無事に生還しても、手柄話があるわけではなかった。書かれた物もほとんど残っていない。
 黙々と馬の世話をし、荷を背負い、輜重車を押し、粗食に耐え、給養も貧しい中で過ごしてきたのだった。ちなみに戦闘兵である輜重兵、その罹患率は輸卒と同じ部隊にいながら歩兵より低い1.83%となっている。兵科兵の中でもっとも低いのは騎兵の0.98%であり、激しい運動が多いだろう工兵が1.96%だった。
森軍医総監が脚気病調査委員会をつくる
 よく知られているように、鴎外森林太郎軍医監は1907(明治40)年11月13日に陸軍軍医総監(中将相当官)に昇進した。陸軍省医務局長に補職される。大学の同期生だった小池正直軍医総監の下で9年も我慢してきた結果だった。
 就任したばかりの森が取り組んだのは、「脚気病調査会」の設立である。すでに東京帝大の後輩にあたる本多海軍軍医総監からも連携の申し出を受けていたともいわれる。また、陸軍全体がロシアとの再戦に備えるといった情勢もあった。同じことをくり返してはならないという真剣さは当然だったことだろう。医務局衛生課長も、山下博士の論稿によれば、広島予備陸軍病院長だった大西1等軍医正を任命する。大西は大陸から還送されてくる脚気病患者を多くみてきた軍医である。
 寺内陸軍大臣もまた、理解を示した。しかし、当時の文部省、内務省の間で、それぞれが調査会を管轄したいといった縄張り争いが起こる。文部大臣牧野伸顕が、『大学に一任せよ』と主張したからだという。これもまた、近代法制国家と日本人を考える一つの例と興味深いこともあるが、本筋から外れるので寄り道はやめよう。
 1908(明治41)年5月30日には、『臨時脚気病調査会官制』が公布される。このことは森林太郎の大きな功績の一つではないかと言っておきたい。
 会は陸軍大臣の管轄下におかれ、伝染病研究所技師たる医学博士など3名、陸軍軍医学校の教官たち5名、衛戍病院長たる軍医1名、陸軍省医務局課員1名、海軍軍医学校教官、海軍省医務局員それぞれ1名ずつ、京都帝大医科大学教授2名、東京帝大医科大学助教授ほか5名といった顔ぶれが委員になった。また、伝染病研究所長北里柴三郎、東京帝大医科大学長青山胤通も臨時委員に任命された。
 これ以後の動きは医学史の分野になる。世界大戦(1914~1918)の間には、欧米でもビタミン研究は続けられた。
 1916(大正5)年4月13日、森軍医総監は予備役に編入される。会長は当然、辞めたが、臨時委員に任命され、関わりは亡くなる大正11年まで続けられた。その頃には、すでに「脚気ビタミン欠乏説」は誰からも支持されていた。そして、森も自分の過去の説の誤りを認めていた。説が確定されたのは1925(大正14)年である。
(以下次号)
(あらき・はじめ)