「銅像になった一年志願兵(富士学校資料館に残る銅像)」 (荒木肇)

2020年4月21日

From:荒木肇
件名:銅像になった一年志願兵(富士学校資料館に残る銅像)
2012年(平成24年)9月5日(水)
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□はじめに
 先週は富士の総合火力演習のことを書きました。そのついでと
言ってはなんですが、富士学校の資料館にある銅像のことに
ついてお話しします。
 多くの方がご存じのように、富士学校は世界的にも珍しい、
普通科(歩兵)、野戦特科(砲兵)、機甲科(戦車・偵察)の学校
が合併したものです。そのため、入校する幹部学生も、この3種類
の職種(兵科)がいっしょで、教育訓練などでもたいへん都合が
良くなっています。
 陸自には職種学校として、他に航空学校、通信、高射、需品、
輸送、化学、小平、武器、施設、衛生学校などがあり、それぞれに
研究部や教育部を備え、教導隊なども付設されています。富士学校
には普・特・機の3職種のために、普通科教導連隊、特科、機甲科
教導隊、それに施設科の支援隊があり、それらがまとめられて富士
教導団という旅団規模の部隊になっています。
 ですから資料館も一般への広報だけでなく、むしろ在校学生の
ための研修・修養施設の色合いが強いのです。昨年、アドバイザー
としての委嘱を正式に受け、館内に足を踏み入れたところ、ある
明治時代の歩兵将校の像がありました。軍刀を右手に、今、まさに
突撃命令を下す瞬間のようです。よく引き締まった姿は、もしや
有名な勇士ではと思いましたが、後ろのキャプションを見ると、
『市川紀元二(いちかわ・きげんじ)予備歩兵中尉』とありました。
 とたんに思い出したことがありました。昭和44(1969)年
のことでした。東京大学は暴徒と化した革命家学生たちのために
構内は無法状態になり、とうとう安田講堂が彼らに占拠されました。
その時、構内にあった市川中尉の像が行方不明になったと聞きました。
 今回は市川中尉のことについて調べたことをお話しします。
また、皆さまに情報があれば、ぜひご教示を願いたいと思っています。
▼松井石根(まつい・いわね)中隊長
 松井大将は南京攻略戦の責任を取らされて刑死した悲劇の将軍で
ある。1878(明治11)年、名古屋に生まれる。生家は尾張藩
上士(600石取り)で、漢学者の6男に生まれ、1890(明治
23)年に東京にあった成城学校に入る。幼年学校受験のためである。
26年9月に陸軍幼年学校に入校、陸士には29年9月に入る。
世代的には日清戦争には間に合わず、陸士卒業後には日露戦争で
多くの同期生を失った人の1人である。
 1898(明治31)年に少尉任官。原隊は名古屋の歩兵第6聯隊
である。1901(明治34)年に陸軍大学校に入校(18期)。
すでに前年に中尉に進級していた。卒業を控えた1904(明治
37)年2月に陸大は閉鎖された。すぐに聯隊に戻ると中隊長として
出征する。金州(きんしゅう)、得利寺(とくりじ)、大石橋(だい
せっきょう)などで勇戦し、大尉に進級。つづいて首山堡(しゅざ
んぽ)で敵弾により負傷、入院する。その後、前線に復帰、沙河の
会戦にも参加。第2軍の副官を務めた。
 たいへん優秀な人で、陸大18期では34人中首席で卒業して
いる(復員後、再開された陸大に復帰)。この後の19期には、
本庄繁、真崎甚三郎、阿部信行大将がいた。このあたりの将軍たちの
経歴を見ると、多くが出征し、勇戦敢闘していることが分かる。
 こころみに上げてみると、渡邊錠太郎、杉山元、西尾寿造、
畑俊六、古庄幹郎、本庄繁、松木直亮などの大将はみな戦傷を受けて
いる。古庄などは2回も負傷し後送された。この戦傷というのも
後方の病院に送られたものでしかない。まさに運命や、生命のはか
なさを実感している将軍たちであったことだろう。
▼小隊長だった市川少尉
 この松井大将が1935(昭和10)年に、インタビューに答えて
いる。将軍によれば、市川中尉は静岡県掛川市の出身。東京帝大の
工学部電気科を卒業し、豊橋にあった歩兵第18聯隊で一年志願兵
として教育を受けた。一年志願兵とは当時の予備役幹部養成のコース
で、1年間の在営費用などを前納し、1年後終末試験を受けると予備
役軍曹になる。その翌年に勤務演習の召集を受け、3カ月の勤務を
とれば予備少尉に任官するといった制度だった。もちろん、正規の
学歴が必要であり、中等学校以上の学校卒業者に権利があった。
『戦役前には東京の確か本所だったと思うが電気会社の技師をして
いた。学生時代からちょっと変わり者で禅味を帯びた人で、ことに
骨相学の研究をして大学在学中に本郷座で骨相学の研究会かなんかを
開いたこともあったそうだ』
 身長は5尺にも足らない。無口で親しみやすい人だったそうだ。
遼陽会戦の直前、37年の6月ごろ、補充の少尉で松井中隊長のもと
にやってきた。8月から始まった会戦で、第3師団が向かった新立
屯(しんりっとん)付近の戦闘で勇戦し、第2軍ではこれを全軍に
布告、ただちに進級の措置がなされた。こういう生前に武功が全軍に
布告され、進級するといったことは大変なことだった。
▼橘大隊とともに夜襲を行う
 8月31日、第3師団は新立屯付近、つまり首山堡近くに夜襲を
行った。第6聯隊のほとんどと、第34聯隊(静岡)が参加したこの
攻撃はうまくいかなかった。
『師団の夜襲が一斉に行われなかった』と、松井大将は回顧する。
敵の各種障害に阻まれ、左突進隊の橘大隊と、右端の『私の中隊だけ
が実行して、その他は中途で夜襲を止めてしまったのだ』とも言っている。
 橘少佐は戦死した。そして、松井中隊も敵前50メートルで
動けなくなってしまった。松井大尉以下、中隊付きの将校で健全
だったのは市川少尉のみになった。中隊の下士兵もほとんどが死傷
した。そして、翌朝、市川少尉はわずか20名あまりの部下を率いて、
けわしい断崖をよじのぼり、敵陣に突入する。師団の攻撃はこれを
端緒にして成功に終わった。
 この間の事情を戦史から眺めてみよう。このとき、師団の作戦計画
は、右から歩18(豊橋)、歩6(名古屋)、歩33(名古屋)、
歩34(静岡)の2個歩兵旅団(4個聯隊)が一斉に突入することに
なっていた。ところで、歩33といえば、「三重県津」であろうと
いうのは、当時では違っていた。明治40年にも歩33は名古屋に
兵営があり、津には新設の歩51が駐屯している。
 ところが、鉄条網や地雷に阻まれ、4個聯隊の各中隊は次々と
前進できなくなった。猛烈な小銃射撃と地雷の爆発である。このとき、
松井中隊長も上腿に貫通銃創を受けた。橘大隊は緩斜面に張りついて
いた。おかげで敵の銃剣をふるっての逆襲でしばしば損害を受けた。
 それに対して松井中隊は敵前50メートルの急斜面の地雷の爆発痕
に身を伏せていた。おかげで、足場が悪く、また、歩18が側面から
援護射撃をしてくれた。そのため、ロシア兵も陣地から出て来ること
はなかった。
▼水筒は置いていきますという市川少尉
『当時少尉の勇敢に奮闘したことは申すまでもないが、その少尉の
心持(こころもち)を私が十分知ることの出来たことは、前夜夜襲に
出かけるときに皆軽装をすることになって、われわれはじめ皆必要な
物だけを持ち身軽になった。その時に市川少尉を見ると水筒を持っていない』
 中隊長は市川少尉に水筒を持っていたらよいではないかと声をかけた。
「いや、もう僅かの間ですから水筒は要りますまい」
 と答えた。中隊長は感動した。もう、その時、死を決していたこと
は明らかであった・・・と松井大将は思った。
『なるほど、小さい身体の人だから七つ道具を持って行くのは不便
でもあったろうし、一切のものを取り去ろうと思ったのであろうが、
しかし水筒を持っていかないという決心は、まあ、どうせ夜の明ける
まで生きていないと覚悟していたという心持が分かる』
 この心持が、全軍において抜群の功績をあげる元になったと松井大将は語る。
▼「市川ゆかんか」の声に応じて
 9月1日の朝である。後方の師団司令部から見ると、崖の中腹に
第6聯隊の松井中隊と、歩34の橘大隊の一部が取りついている。
師団はもう一度、昼間の総攻撃を行うことにした。午前11時ころ、
師団全部に「攻撃前進」の下命があった。12時ころには、後方から
部隊がやってくる。
『前夜から我々が頑張っているのに、今となって後から来た隊と
一緒に行くのは残念である。僕も立ってみようと思ったが、立て
ない。それで、市川、行かんかと言ったら行きましょうという。
それでどうっと突撃して出た』
 このとき、少尉の後に続く者は14、5名にしか過ぎなかった。
市川少尉の勇敢な突撃の姿勢に励まされ、一同はどっと斜面(原文
には斜坂とある)を駆け登った。敵の撃ちだす砲弾、小銃弾は
あたり四方に落下してずいぶん凄まじかったが、市川少尉は山頂に
達して、敵の陣地に飛びこんだ。
 これが首山堡占領の魁(さきがけ)となった行為だった。
しかも、白昼のことである。造られた像はこの時の姿を写したもの
に違いない。
 この功績で中尉に進級し、遼陽、沙河の2つの会戦でも無事に
生き残った。明治38年の正月は塹壕の中で迎え、有名な黒溝台の
戦闘でも無事だった。その後、2月の末日に、負傷が癒えて帰隊
していた松井大尉は、第2軍兵站副官に異動する。そして、市川中尉
は、中隊長代理となり奉天の会戦に参加する。
▼銅像は忘れられている
 勇敢な働きを見せた人は多かった。しかし、市川少尉のような
偉功はなかなか少なかった。しかも、彼は正規教育を受けた士官学校
卒の現役将校ではない。いかに学問はあるにせよ、一年志願兵出身
の不十分な軍事教育しか受けていない予備役将校だった。何とかして
無事に凱旋(がいせん)させてやりたい。こういう人材を戦死させて
は相すまぬ。そう考えた松井大尉は関係する方面にその意向を伝えていた。
 そのころ、各師団に電燈班という組織ができた。第3師団にも
これを置くことになった。ちょうど、それがいい。本人も電気技師
であり、専門の力量も発揮することができる。そう環境が整っていた
ところが、電燈班の到着は遅れる、松井大尉は転出する。市川中尉は
中隊長代理となって、中隊の指揮をとり、惜しくも奉天会戦で戦死した。
 凱旋したあと、松井大尉がやったことは東京帝大や掛川の郷里の
人達に声をかけて、市川中尉の功績を残そうということだった。
いつだったか記憶がはっきりしないと松井大将は言うが、故郷の
静岡県掛川と東京帝大の構内に銅像が2つ置かれた。掛川の鉄道
停車場にあった一体は、昭和の初めに駅が建て直されたとき、
駅近くの神社に移された。帝大には今(昭和10年当時)も医科
大学(医学部)の入口にあるという。
『帝大工学部の催しで中尉のお祭りを先日も行ったが、学生は
もちろん、職員の人たちも中尉のことなど知らない人ばかりだった』
 戦争体験の風化、昭和10年は1935年である。中尉の戦死は
1905年のことであり、30年間が経った。みごとに人々の記憶
は戦死者から離れて行ってしまう。
 残された未亡人と幼子の消息は分からないという。
▼数奇な運命の銅像
 それが、富士学校の資料館にあった。東京大学では紛争時のこと
として、像は行方不明だという。たしか、そう聞いた記憶がある。
もし、レプリカではなく本物なら、東京帝大の中に昭和10(19
35)年にあった物だろうと思う。富士学校の関係者には、像の
由来や、正確なキャプションを付けるように進言した。また、現状
のままの陳列はどうかと思うとも意見を申し上げておいた。収納
された経緯も含め調査し、できたら慰霊のためにもきちんとした
展示をした方が良いと信じている。
 もし、本物なら、手に提げた抜き身の軍刀の刀身に補修の跡が
ないだろうか。というのは、当時の配属将校の証言によれば、
昭和10年当時、軍刀は折れていたらしい。「近所の子供でも
いたずらしたのでは」という推測もされ、30年記念式典までには
直したいとも言っている。それが実行されていれば、富士学校の
像にその痕跡が残っていないだろうか。
 次回は脚気の実態と大団円を書きたいと思う。
(以下次号)
(荒木肇)
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● 著者略歴
荒木肇(あらき・はじめ)
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜市立学校教員、
情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員等を歴任。退職後、生涯学習研
究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務め
ながら、陸上自衛隊に関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受け
る。年間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」「自衛隊就職ガイ
ド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日本陸軍と自衛隊」「子供にも嫌わ
れる先生」「東日本大震災と自衛隊」
(いずれも並木書房 http://www.namiki-shobo.co.jp/ )
「日本人はどのようにして軍隊をつくったのか」
(出窓社 http://www.demadosha.co.jp/
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著者:荒木肇
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