武士道精神入門(11)–武士たちが遺した教え:大道寺友山『武道初心集』– 家村和幸

2019年2月6日

▽ごあいさつ
 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
今回は「武士たちが遺した教え」の第七回目といたしまして、江戸時代の兵法家・大道寺友山(だいどうじ ゆうざん)が武士の子弟のために書いた武士道入門書『武道初心集』を紹介します。
 山鹿素行の弟子でもあった大道寺友山は、この『武道初心集』で太平の世における武士としての基本的な心構えや常日頃から心掛けるべきこと、武芸や学問の学び方などを五十六項目で詳しく書いています。
 今回のメルマガでは、これらの中から冒頭に記述されている「死生観」や「忠孝」に関する三項目を紹介いたします。
 それでは、本題に入ります
【第11回】武士たちが遺した教え:大道寺友山『武道初心集』
▽常に死をならへ
 武士というものは、元旦に最初の餅を祝う時から、その年の大晦日(おおみそか)の夕にいたるまで、日夜、常に「死」を心に留めておくことを本分とするべきである。
死を心に留めてさえおけば、「忠孝」の二つの道にも適(かな)い、あらゆる悪事や災難をも遁(まぬが)れ、健康で長生きできる上に、その人柄までもよくなり、それにより得られるものは多いのである。
その理由については、よく人間の命を夕べの露や朝の霜のようにあまりにも儚(はかな)いものであるといわれるけれども、その中でも一番短いのが武士の身命であらねばならない。
にもかかわらず、実際にはそこらの武士たちは、恥ずかしげもなく何時までも長生きをしようなどと思っているから、主君への御奉公や親への孝養もどうせこのままずっと続くのだろうと考えるようになる。そのような心構えであるから、余計なへまをやって、主君への奉公に失敗し、親への孝行もいいかげんになる。
 今日あっても、明日はどうなるか分からない身命なのだと覚悟さえしていれば、主君へも今日が奉公する最後のとき、親に仕えるのも今日を限りと思うようになり、主君の御前に出向いて御用を承(うけたまわ)るにしても、親の顔を見上げるにしても、「明日にはもうお会いできないのだから、主君そして親を今日できる限り大切にしよう」というような心になる。
このような心があればこそ、主君や親への思い入れも真実のものとなる。それゆえに、「忠孝」の二つの道にも適うといえるのである。
 そもそも、心に死を忘れて油断すれば、物事への慎みも無くなる。そして、人の気に障(さわ)ることなどを言って口論となり、聞き捨てれば済むことでも聞き咎(とが)めていちいち反論し、あるいはたいして得るものも無いような物見遊山などに行き、人ごみの中を徘徊(はいかい)して、どこの馬の骨ともわからぬ輩(やから)に因縁をつけられて喧嘩に及んで命を落としたり、うっかり主君の御名を口にして親兄弟に迷惑を掛けてしまう。これらは皆、常に死を心に留めない油断から起こる災いである。
死を常に心に留めていれば、人に物を言うときも、人に返答するときも、武士として一言一言を慎重に選ぶことの大切さを心得るようになり、無益な口論などせずに済み、もちろん、つまらない場所へは人に誘われても行かないから、不慮の出来事に巻き込まれることも無い。このことから、あらゆる悪事や災難をも遁れることができるといえるのである。
 高貴な人も賤(いや)しい人も、死を忘れるから過食・大酒・淫乱などの不養生をして脾臓・腎臓の病気にかかり、思いの外に若死にをし、あるいはたとえ存命であっても、何の役にも立たない病人となってしまうのである。
死を常に心に留めていれば、実際の年齢よりも肉体の年齢が若く、無病息災であっても、日常から栄養をつける心構えを持ち、飲食に節制をし、色の道を遠ざける等、嗜(たしな)み慎むがゆえに肉体の頑丈さが保たれるのである。そうであるから、健康で長生きもできるというのである。
 その上、死をまだ先のことのようにばかり思っているならば、この世に長く留まっていられるとの観念があるから、色々な望みも出てきて慾深くなり、人の物であっても欲しがり、自分の物は惜しみ、ことごとく皆、町人や百姓と同じような根性になるのである。
死を常に心に留めていれば、世の中での未練もなくなることから、貪欲(どんよく)な心も自ずから薄くなり、欲しがったり、惜しんだりというさもしい根性もさほど頭をもたげてこないのが道理である。そうであるから、その人柄までもよくなると言ったのである。
 ただし、たとえ死を心に留めるとはいえども、吉田兼好が徒然草に書いている心戒と比丘尼の話のように(この世の無常を思うあまりに、じっと座っていることが出来ず)常に死期をまつ心でただひれ伏しているというのは、出家した僧侶が心に死を留める修行ではあっても、武士としての修業の本意に適うものではない。
そのような形で死をとらえてしまうと、主君や親への忠孝の道も廃(すた)り、武士としての家業も疎(おそろ)かになるから、全くよくないことである。
昼夜を問わず公私にわたり諸用をこなしながら、ほんの少しでも暇ができてゆっくりしている時には「死」の一字を思い出し、怠ったり、手を抜いたりせずに心に留めて置けということである。
 楠木正成が、子息・正行(まさつら)に教えた言葉にも、「常に死をならへ(いかに死すかを日常の実践のうちに悟れ)」とあるのを伝え聞いている。
 初心の武士が心得ておくべきは、こうでなければならない。
▽勝負の気
 武士というものは、行住坐臥(行く時も、留まる時も、座っている時も、臥せている時も)二六時中、警戒心を研ぎ澄ましておくことが肝要である。
 我が国は海外の国と異なり、いかに身分の低い町人・百姓や職人であっても、身分相応に錆びた脇差の一つも持ち歩いている。これは日本という「武の国」の風俗であって、太古の昔から変わることの無い「神ながらの道」(=神代から伝わる、神の御心のまま人為が加わらない〝まことの道〟)である。
 そうではあっても、(農工商の)三民は武を家業とはしていない。
武門においては、たとえ小者・中間(ちゅうげん)・あらし子といった身分の低い武家でさえも、常に脇差を放してはならない作法が定められている。
ましてや、侍以上の武士であれば、ほんのわずかな間も腰に刃物を絶やしてはならないのが鉄則である。
したがって心懸けの深い武士は常に、たとえば入浴する際にも刃引き刀、あるいは木刀などを用意して置くというのも、我が身の安全を心懸けているからである。
自宅でさえもそういう心懸けでいるのだから、ましてや外出するには、往復の道すがらや目的地で気違いや酔狂人あるいはとんだ馬鹿者と遭遇して予期せぬ出来事が発生することも十分にあり得るという心懸けが必要なのである。昔の人の言葉にも、「門を出るより敵を見るが如く」などというのがある。
 武士として腰に刀剣を帯びている身であるからには、ほんの一瞬の時でさえも「勝負の気」を忘れることがあってはならない。
勝負の気を忘れずにいれば、自然のうちに死を心に留めて充実するようになる。
腰に刀剣を差し挟みながらも、勝負の気を常に持たない侍は、武士の皮をかぶった町人・百姓と少しも違わないように思える。
 初心の武士が心得ておくべきは、このようでなければならない。
▽忠義と孝養
 武士というものは、親への孝養を厚くすることを第一義とすべきである。
 たとえ利発さや才覚が人より優れていて、生まれつき弁舌が立ち、器量が良かったとしても、親不孝な人間は何の役にも立たないものである。
その理由はこうである。武士道というものは、その本末を知って正しく行うことが肝要であるとすべきものである。本末を弁(わきま)えなければ、義理を知ることもできないのである。義理を知らない者を武士とは言い難い。
そこで、本末を知るということについてであるが、親というのは自分がこの世に発生した根源(本)であって、自分の身体は親の骨肉の末である。しかしながら、その末である我が身だけを立身させようと思うから、余計なことばかりが生じて根本たる親をいいかげんに扱ってしまうようになる。これは本末を弁えないがゆえである。
 また、親に孝養を尽くすのにも二つの段階がある。
 たとえば親が正直者で、心から子を愛して熱心に教育し、その上普通ではそこまで貰えないような知行高に加え、武具・馬具・家財等に至るまで何の不足も無く与え、良い娘を妻に迎えさせ、何ら不自由の無い家督を譲り、自分は隠居の身となって引っ込んだ親などへは、その子としてありきたりの孝養を尽くすだけでは、何ら褒められることも、感銘を与えることも無い。
その理由はこうである。全くの他人でさえ、互いに友情を深め合うことにより親しい間柄になり、こちらの身の上や勝手向きの事までも親身になって心配して兎(と)にも角にも世話を焼いてくれるような人に対しては、こちらも大切に思って、たとえ自分の事を差し置いても、その人のためならば、と思うものである。
ましてや自分の親が、親としての慈愛に満ちて、親としてできる事を全てやってくれるようであれば、子としてどれ程孝養を尽くしたところで、これで十分だと思えるはずがないのである。こうしたことから、ありきたりの孝養を尽くすだけでは、何ら褒められることも、感銘を与えることも無い、と言ったのである。
 もし親の根性が悪く、くわえて年をとるほど僻(ひが)みっぽくなり、くだらぬ理屈だてばかりをし、自分の財産を全て子に与えることもなく、決して楽な生活状態ではない子の厄介になって面倒を見てもらいながらも、その弁えも無く、朝夕の飲物、食物や衣類にまでもケチをつけ、さらに他人に会えば「せがれが不孝な奴だから、老後に思いもよらぬ苦労をすることになり、ことのほか迷惑している」などと触れ回って、我が子の外聞を失う事を何とも思わないような思い違いをした親であったとしよう。
こういう親に対しても親と崇(あが)め、取りたくもない機嫌を取り、ひたすら親の老衰を悲しみ嘆いて、少しも手を抜かずに孝養の誠を尽くすのを「孝子の本意」というのである。
 このような根性を持った武士は、たとえ主君をとり、奉公の身となっても、忠義の道をよく弁えているから、主君の威勢が盛んな時は言うまでもなく、たとえ御身の上に不慮の事があって難題が山積みになった時でも、なお一層、誠の忠節心を篤(あつ)くし、軍(いくさ)において味方百騎が十騎に、十騎が一騎になろうとも御側(おそば)を離れず、幾度となく敵の矢面に立ちふさがって身命を省みないというような尽忠に勤めるのである。
その理由は、親と主君、孝と忠という文字が変わるだけであって、心の「信」に二つはないからである。そうであればこそ、古人の詞にも「忠臣は孝子の門に求めよ」とされているのである。
 たとえば、親不孝者でありながら、主君への忠節は格段に優れているなどということは、道理として決してあり得ない。それは、自らの身体の根本である親にさえ孝を尽くすことができないような未熟な心をもって、天倫(親・兄弟のように自然に定まっている人間関係)にあらざる主君の恩義を感じて忠節を尽くすことなどできるわけが無いからである。
家に在って親に不孝の子は、外へ出て主君を取り、奉公する事になったとしても、主君の襟(えり)元に目をつけて少しでも左前になっている(和服においては「死人前」「死人合わせ」と称し、縁起が悪い)のを見たならば、たちまち志が変わり、戦場で追いつめられたならば、櫓(やぐら)から逃げ出し、あるいは敵へ内通したり、降参したりといった不義を仕出かすのが古今の定まり事である。これらを恥として慎まねばならない。
 初心の武士が心得ておくべきは、ここに述べたようでなければならない。
【解説】
 寛永16(1639)年に越後の国村上邑に生まれた大道寺友山は、二十歳前後に江戸に出て、小幡景憲(こばたかげのり)、北条氏長らに師事して甲州流軍学を修め、五十歳頃には山鹿素行から兵学の奥義を伝授されて甲州流の兵法家となった。
 兵学の他にも儒学なども学び、その幅広い学識から安芸の浅野家などの諸家に迎えられた。
 元禄4(1691)年、五十八歳で会津藩・松平正容の客分となり、その功績から同10年には家臣となる。しかし、同僚の嫉妬からの讒言(ざんげん)により(注:他説あり)、同16(1700)年に六十一歳で会津松平家から追放される。
 その後は各地を転々とした果てに、武蔵岩淵(現在の東京都北区)に仮住まいを設けて『岩淵夜話』を著し、正徳4(1714)年、七十五歳で福井藩・松平吉邦に召し抱えられて軍学を講じた。『武道初心集』はこの頃に著されたものである。
 享保15(1730)年、江戸霊岸島の邸宅において没した。享年九十二歳。
 大道寺友山の没後百年以上を経た幕末期、水戸藩主の徳川斉昭が『武道初心集』を気に入り、家臣たちにも読むように薦めていたという。
 (「大道寺友山『武道初心集』」終り)
(いえむら・かずゆき)
《日本兵法研究会主催イベントのご案内》
【第12回 軍事評論家・佐藤守の国防講座】
 演 題『日本を守るには何が必要か=日米”友好”と日中”嫌悪”の実態=』
 日 時 平成25年5月12日(日)13時00分~15時30分(開場12時30分)
 場 所 靖国会館 2階 偕行の間
 参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料
【家村中佐の兵法講座 -楠流兵法と武士道精神-】
 演 題 第三回「『大楠公訓話』を読む(原文講読)」
 日 時 平成25年6月8日(土)13時00分~15時30分(開場12時30分)
 場 所 靖国会館 2階 田安の間
 参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料
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