トーチ作戦とインテリジェンス(17)




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はじめに

 

こんにちは。長南です。
本連載は、トーチ作戦(*)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施した連合国の戦略作戦情報の役割についての考察です。
(*)1940年から1942年11月8日に実施された、連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味

 

前々回より、ウィリアム・ドノヴァンの略歴について述べています。

 

ドノヴァンは、大統領から要求された時にルーズヴェルト大統領にとって唯一の中央情報機関としての役割を果たすだけでなく、将来的に米軍の作戦が展開される可能性の高い地域の出来事に関する戦略レヴェルの情報収集を行ってもいました。

 

1940年11月、ルーズヴェルト大統領は、世界情勢を正確に評価できるドノヴァンの能力を再度使おうと考えます。今回は、地中海地域にドノヴァンを派遣したのです。

 

この地中海地域への視察旅行には、隠れた意図がありました。視察旅行の途次、ドノヴァンは英国に立ち寄っています。すなわち、この視察旅行は、ドノヴァンによる英国情報機関の視察を兼ねたものであり、さらには英国首相ウィンストン・チャーチルとドノヴァンとの個人的な会談もセッティングされていたのです。

 

ドノヴァンの英国情報機関視察やチャーチル主要との会談をセッティングしたのが、ウィリアム・“イントレピッド”・スティーヴンソンです。スティーヴンソンがドノヴァンの旅程をセッティングしたのには裏がありました。

 

1940年末、チャーチルは、カナダ出身の億万長者で、暗号名「イントレピッド(勇猛な)」で知られるウィリアム・スティーブンソンを米国に派遣していました。スティーブンソンの任務は、インテリジェンスを米英間で共有できるように、米国のインテリジェンス機関を組織化することを支援することにありました。

 

1940年12月6日、ドノヴァンは、スティーヴンソンと共にロンドンへ向けて米国を出発し、地中海地域視察の前に英国に立ち寄り英国の情報機関を視察しています。その後、ジブラルタル、マルタ、エジプト、ギリシャ、ユーゴスラビアおよびポルトガルを訪問し、1941年3月18日、米国に帰国しました。その旅行期間は3か月半にも及びました。

 

帰国翌日、ドノヴァンは海軍長官フランク・ノックスと共にホワイト・ハウスを訪問し、ルーズヴェルト大統領に対して視察結果を報告したのです。

 

今回は、情報調整局(Office of the Coordinator of Information, OCI)とドノヴァンとの関係について述べることとします。

 

 

では、きょうも【トーチ作戦とインテリジェンス】をお楽しみください。

 

 

ドノヴァン、中央集権的インテリジェンス機関の長の候補者として浮上する

 

ドノヴァンは、最新の海外視察経験から欧州情勢とそれを動かす政府要人たちに関する正確な知識を獲得し、ナチス・ドイツによってもたらされた衝撃の程度を正しく理解していた。そのような人間はルーズヴェルト大統領の周囲には少なかった。

 

既述したように、この当時の米国の対外諜報活動は、陸軍の情報部、海軍情報局(Office of Naval Intelligence;ONI)、国務省および連邦捜査局(FBI)などの組織がそれぞれの利害関係に基づき独自に実施しており、情報の共有化もなされていなかった。

 

この弊害を克服するために、ルーズヴェルト大統領が、中央集権的なインテリジェンス機関を米国に創設しようと考えた際にその組織の長の候補者の一人として浮上したのがドノヴァンであった。

 

ドノヴァンは、強力かつ中央集権的なインテリジェンス機関の必要性を認識しており、組織をゼロから作る天性の才を有しており、大統領や政府の上級官僚のリクワイアメント(情報ニーズ)に正しく答えることの出来る能力を持っていた。戦間期以来の活動を通して、ドノヴァンはこうした才能をルーズヴェルト大統領から評価されていたのである。

 

 

ドノヴァン、中央集権的インテリジェンス機関の創設をルーズヴェルトにすすめる

 

地中海地域からワシントンに帰還したドノヴァンは、ルーズヴェルト大統領と複数回の会合を行った。この会合の間、ドノヴァンは、英国の特別作戦部(Special Operations Executive ;SOE)およびのちにMI-6となる秘密情報部(Secret Intelligence Service ;SIS)と同じような任務と能力を有する単一のインテリジェンス機関を創設するアイデアを大統領に説明する機会を得た。

 

ドノヴァンから設明を受けたルーズヴェルトは、彼独特の冷静さを発揮してこの話を淡々と聞き、ドノヴァンに決断までしばらく待つように答えた。ルーズヴェルトは、米国のインテリジェンス機関同士の間に存在するインテリジェンス・ギャップを埋めるため、文民が長を務める独立した中央集権的インテリジェンス機関を創設すべきだというドノヴァンの考えについて、長い時間をかけて真面目に検討した。

 

 

情報調整官創設を定めた1941年7月11日の大統領令の基となった軍事命令

 

ルーズヴェルト大統領は決断を下し、1941年6月25日付の軍事命令(Military Order)を使用することによってこの問題の解決を図ろうとした。軍事命令の草案には、「大統領の指示および監督の下で」活動する「国防情報調整官の地位」を創設し、「戦略情報調整官」としてドノヴァンを指名するとあった。

 

第二次世界大戦中にOSSで諜報機関の分析官としてのキャリアをスタートさせ、冷戦中のキューバ危機の際のCIA情報担当次官として知られるレイ・クラインは、この軍事命令の重要性を次のように述べている。

 

「この文書でカギとなる条項は、軍事もしくはそれ以外の情報であっても国防戦略に関係する可能性のあるインフォメーションおよびデータを収集・分析し、そのような戦略的なインフォメーションおよびデータを解釈し相互に関連付け、それを大統領および大統領が決めた役人たちが使用できるようにするための権限をドノヴァンに与えた点にあった」(『秘密、諜報員、学者たち―不可欠なCIAの青写真』原題:Secrets, Spies, and Scholars : Blueprint of the Essential CIA)。

 

そして、国防情報調整官の創設について書いたこの文書が、1941年7月11日に出された、情報調整局(Office of the Coordinator of Information,;OCI)の創設を規定した大統領令の起源となったのである。

 

情報調整局は、大統領行政府の下に組織され、安全保障にかかわるあらゆる情報を収集・分析し、大統領および大統領の指定する政府機関・職員にそれらを提供する機関であるとして公には説明された。

 

しかし、現実には、情報調整局とその後身である戦略情報局(Office of Strategic Services ;OSS)は、米国初の中央集権的インテリジェンス機関として政府の保護を受け、情報の収集分析にとどまることなく、スパイ活動、プロパガンダ、サボタージュ活動、および破壊活動といった分野にまで活動の範囲を広げていったのであった。

 

 

ドノヴァン、情報調整官に任命される

 

情報調整局が設立されたのと同じ1941年7月11日、ドノヴァンは、情報調整局の長である情報調整官(Coordinator of Information)に任命された。民主党出身のルーズヴェルト大統領が、共和党員であり1932年のニューヨーク知事選に共和党候補者として出馬していたドノヴァンを情報調整官のポストに起用したことは、事情を何も知らない一般市民にとって驚きの出来事であった。

 

しかし、「ルーズヴェルトは、スパイ活動、サボタージュ活動、ブラックプロパガンダ、ゲリラ戦およびその他のアメリカらしくない破壊活動の実行へとニューディールの旅を導くために彼を選んだ」のであった(R・ハリス・スミス『OSS 米国最初の中央情報機関の歴史』原題:OSS: the Secret History of America's First Central Intelligence Agency )。

 

 

オシントの重要性を理解していたドノヴァン、研究分析部を整備する

 

ドノヴァンは直ちに情報調整局の組織化に着手した。彼が最初に力を注いだのは、ドイツ、イタリアおよびフランス領北アフリカに関する情報を分析するために学界から有識者を集めて組織した研究分析部(Research and Analysis Branch)を整備することであった。
ドノヴァンは、図書館などで閲覧可能な新聞や雑誌など公開資料であっても、専門家が分析すれば相手国の戦力・経済力といった諜報上重要な問題について有益な情報を獲得できるという考えから、研究分析部を設立したのである。

 

このドノヴァンの考えは重要な意味を持つ。新聞、雑誌や政府公刊資料といった一般人でも入手可能な資料を基に情報を収集分析する手法をオープン・ソース・インテリジェンス(オシント)といい、オシントは現代世界のインテリジェンス機関が行う諜報活動において情報源としての比重が高いといわれている。第二次世界大戦当時からオシントの重要性に着目していたドノヴァンは、先見の明があったといえるであろう。

 

ドノヴァンは、「戦略情報局設立に関する覚書」の中で、総力戦における戦略立案と情報の関係性について述べている。ドノヴァンは、覚書の中で、その当時存在したインテリジェンス機関の不備について指摘したうえで、以下のように述べている。

 

「われわれが、国内および国外で、(インテリジェンス機関が)直接もしくは現存する政府機関を通じて、関係するインフォメーションを収集する中央インテリジェンス組織を設立することは、欠かすことができないことだ。そのようなインフォメーションやデータは、関係する科学分野の専門的訓練を受けた役人たち(これには技術・経済・財政・心理学者が含まれる)の経験を適用することによって分析・解析されなければならない」(R・ハリス・スミス『OSS 米国最初の中央情報機関の歴史』)。

 

 

ドノヴァン、情報調整局に北アフリカの調査を命じる

 

1941年9月に、ドノヴァンが情報調整局に指示して最初に調査を命じた地域が北アフリカであった。ドノヴァンは、自身の視察旅行の経験に基づき、連合軍の軍事活動が展開される可能性の高い地域を北アフリカであると予想していた。

 

さらに、ドノヴァンは、将来実施される可能性の高い北アフリカでの軍事活動が、創設されて間もない未熟なインテリジェンス機関の軍事活動支援能力を試す格好の試験場になると考えていた。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(ちょうなん・まさよし)

関連ページ

第1回
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最終回
戦史研究家・長南政義さんの作品「戦史に見るインテリジェンスの失敗と成功」シリーズ第3弾 「トーチ作戦とインテリジェンス」(最終回) メールマガジン「軍事情報」で連載。